南海電気鉄道
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南海電気鉄道株式会社(なんかいでんきてつどう、: Nankai Electric Railway Co., Ltd.)は、大阪市難波から関西国際空港和歌山県北部の和歌山市高野山までを結ぶ鉄道[3]を経営する会社。総営業キロは154.8 km。日本の大手私鉄の一つであり、純民間資本としては現存する日本最古私鉄である。南海グループの中核企業で、一般には「南海」または「南海電鉄」と略され、また「南海電車」の呼称もある[注釈 1]
概要

本社は大阪市浪速区今宮戎駅北西側に立地する南海なんば第1ビルに所在し、東京証券取引所プライム市場に上場している[5][注釈 2]阪堺電気軌道泉北高速鉄道南海バス南海フェリーなどの交通事業者を傘下に置く。高野山への路線を運営していることから全国登山鉄道‰会に加盟している。

社名の「南海」は紀伊国が属する律令制南海道に由来し、 - 和歌山間の出願時に名づけられ、のちに南海道に属する淡路四国への航路との連絡も果たした。2020年に迎えた創業135周年を機に定めたブランドスローガンは「‘なんかいいね’があふれてる」[7]: Bound for Good Times.)。

鉄道との相乗効果が大きい観光・小売・不動産開発といった方面に事業を多角化しているが、本社やターミナル駅難波駅がある難波周辺(ミナミ地区)に重点を置く[8]。グループ内に百貨店を持っていない唯一の関西大手私鉄であるが、難波駅の駅ビルである南海ビルディングに系列外の島屋大阪店がテナントとして入居している。

かつてはプロ野球球団(南海ホークス、後の福岡ダイエーホークス、福岡ソフトバンクホークス)を保有し、大阪スタヂアム(大阪球場)・中百舌鳥球場(いずれも後に解体)や遊園地(さやま遊園みさき公園)も経営していたが、球団経営からは1988年、遊園地経営からは2020年に撤退した。
歴史

1884年に関西経済界の重鎮であった藤田伝三郎松本重太郎田中市兵衛外山脩造らによって大阪の間を結ぶ鉄道敷設が出願され、大阪堺間鉄道として会社設立が許可されたのが始まりである。同年に社名を阪堺鉄道と改め、翌1885年12月に難波駅 - 大和川駅(後に廃止)間を開業した。日本鉄道(半官半民)、東京馬車鉄道に次ぐ、日本で3番目の私鉄として、また純民間資本としては日本最初の私鉄[9]として設立され、路線は1883年に廃止された釜石鉱山鉄道の資材を用いて敷設された。1898年に新設会社の南海鉄道が阪堺鉄道の事業を譲り受けた。この1898年に高野鉄道(1896年設立。当時の社長は松方幸次郎[10])が堺から高野山を目指し、高野線の前身となる大小路駅(現在の堺東駅) - 狭山駅間を開業している。同年中に長野駅(現在の河内長野駅)まで延伸し、1900年には道頓堀駅(現在の汐見橋駅) - 大小路駅間が開業した。しかし経営は思わしくなく、根津嘉一郎が出資して設立された高野登山鉄道が1907年に経営を引き継いで1915年に橋本駅まで路線を延ばし、大阪高野鉄道に社名を改めた。

南海鉄道は以後も合併により営業地域や規模を広げたが、路線は長らく大阪湾沿岸部に集中していた。南海鉄道の『開通五十年』では日露戦争後の鉄道国有化の時(1906年)、「わが社が国有化されなかったのは当時沿岸部にしか路線がないので軍事的立場から除外されたから」としている[11]。1909年には競合路線を有していた浪速電車軌道を、1915年には同じく阪堺電気軌道を合併した。1920年の原内閣時に再度国有化の話が浮上し、前述の阪堺線買収後の赤字気味で今買収されるのは最悪の状態と南海重役の佐々木勇太郎と垂井清右衛門が上京して帝国議会に抗議しに行くほどの事態になったが、彼らの活躍とは無関係に議会が解散してしまい、この話はなかったことにされたという[11]

そして1922年には根津嘉一郎から譲られる形で初めて内陸に伸びる大阪高野鉄道を、1940年には日中戦争激化に伴う交通統制(陸上交通事業調整法)で競合会社の阪和電気鉄道を、太平洋戦争開戦後の1942年には加太電気鉄道を合併した。

1944年に、元阪和電気鉄道の路線を戦時買収運輸通信省に譲渡(阪和線となる)した後、前記の陸上交通事業調整法による戦時企業統合政策で関西急行鉄道(関急、1941年に大阪電気軌道(大軌)を母体に設立)と合併し、近畿日本鉄道となり[注釈 3]、鉄道線は難波営業局、軌道線は天王寺営業局の管轄となった。しかしこの合併は、資本面も含めて殆ど接点のない、経緯や社風が全く異なる者同士のものであって、当初から体制に無理が生じていた。当時の関急側の代表者であり、関急成立の立役者である種田虎雄でさえ、「南海との合同だけは、政府から無理強いされたもので、自分が望んだものではなかった」と語っていた。一般利用客の間でも、旧南海鉄道の路線については近畿日本鉄道に併合されていた時期でも従来通り「南海」「南海電車」と呼んでいた。そういう理由もあって、終戦後に難波営業局員主導で分離運動が起こり、1947年に高野下駅 - 高野山駅間を運営していた高野山電気鉄道へ旧・南海鉄道の路線を譲渡する形で、南海電気鉄道が発足した(このため法人としての南海電気鉄道の設立日は高野山電気鉄道の設立日である1925年3月28日となっている)。1961年には、貴志川線(2006年に和歌山電鐵へ譲渡)や和歌山軌道線(1971年廃止)を経営していた和歌山電気軌道も統合している。

なお、浪速電車軌道と(初代)阪堺電気軌道の路線については、1980年に南海子会社の(2代)阪堺電気軌道へ譲渡された。

他の在阪の大手私鉄は2016年4月までに阪急阪神ホールディングス近鉄グループホールディングス京阪ホールディングスといった純粋持株会社に移行した。南海は2018年5月時点で在阪の大手私鉄では唯一、純粋持株会社制度を取っておらず、移行の予定もない。
年表

1884年明治17年)

6月16日 大阪堺間鉄道設立。

11月22日 大阪堺間鉄道が阪堺鉄道に社名変更。


1885年(明治18年)12月29日 阪堺鉄道が難波駅 - 大和川駅(後に廃止)間を開業[注釈 4]

1895年(明治28年)8月25日 南海鉄道設立。

1898年(明治31年)10月1日 阪堺鉄道が南海鉄道に事業譲渡。高野鉄道株式会社がが高野鉄道の大小路駅(現在の堺東駅) - 狭山駅間を開業[10]


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