南洋諸島
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高等警察特別高等警察の取締対象となる犯罪もほとんどなかった[注釈 5]

行刑施設は警察の留置場を代わりに使っていたが、1929年(昭和4年)にサイパンに監獄が整備された[3][注釈 6]

1934年(昭和9年)まで死刑の執行がなかったことは確認されているが、その後については死刑の宣告や執行があったかどうかは不明である[3]
衛生

南洋諸島の風土病としてアメーバ赤痢デング熱フランベジアなどがあった。南洋庁では各地に公営の病院(「医院」と称した)を設けて診療に当たらせた。(各医院は南洋庁立の病院を参照)また民間でも、南洋興発が各農場に診療所を開設して従業員の診療を行っていた。公医院の一部の医師は現地人の診察の傍ら積極的に民族学的、疫学的、医学的調査を行っていた。それら研究結果は「南洋群島地方病調査医学論文集」として南洋庁警務課が発行を行っており第一集(1933)から第五集(1939)まである。

パラオ、トラック、ポナペ、ヤルート、ヤップの各医院に勤務していた岡谷昇、長崎協三、藤井保、鮫島宗雄らは上記論文集の4集「民族生理学及病理学的研究」5集「人類学人種学的研究」でミクロネシア人の医学的、衛生学的、人類学的発表を行っている外、公学校教師の調査協力をもとに日本民族衛生学会の雑誌「民族衛生」などでもミクロネシア人の疫学的研究結果を発表している[21]

島民の一部には近代医療を拒否したり(モデクゲイを参照)、便所を作らないで近所の森や砂浜に排泄する習慣があったため、講話や映画によって衛生思想の普及を図ったり、共同便所の設置や汚物清掃などの事業を行っていた。
教育トラック環礁夏島公学校の教室

日本人児童と島民児童の教育を完全に分離し、前者には内地と同様の教育機関を設けた。日本人児童は修業年限や教科課程の面で、内地と何ら変わらない教育を受けることができた。

一方、島民児童には、本科3年制の「公学校」が設けられた。修身国語日本語)の習熟に重きが置かれた教育で、優秀な児童には更に2年制の補習科に進学した。1926年(大正15年)には、更なる進学先として「木工徒弟養成所」を設立し、島民技術者の養成に当たった。
租税

南洋庁は、租税として「人頭税」「関税」「出港税」「鉱区税」の四種類の税を定めていた(1932年時点)。徴税手続については当時の国税徴収法に準じて、「南洋群島租税其他の公課徴収規則」を定めて執行した。
人頭税

ドイツ統治時代に由来を発する税で、16歳以上の男子に課せられた税である。ただし島民とそれ以外の者とで税額や徴収方法に区別を設けていた。
島民の人頭税
年額10円以内とし、各集落ごとに酋長の意見を聞いて税額を定めた。原則として均一税額であったが、多額の資産を持つ者については別途40円まで賦課できた。また16歳未満の児童を5人以上扶養する者(資産家は除く)や障害者などについては免除された。特例として、ヤルート支庁管内では酋長が全住民を代表して納税することにし、金納ではなくコプラで納めた。
島民以外の人頭税
収入に応じて、2?50円を賦課した。また宗教関係者や貧困者、一時滞在者や6ヶ月未満の在住者については免除された。
関税

南洋諸島を一つの関税地域とし、南洋諸島外(内地も含む)から輸入したり、南洋諸島外に輸出する物品に、価格(一部の物品については重量)に応じて賦課した。
出港税

当時の日本では、酒類砂糖については、それぞれ酒造税・砂糖消費税という間接税が課せられていた。そこで南洋庁では、酒類や砂糖を内地に持ち出す際に、予めこれらの税と同額の税を課した。一旦、出港税を課した物品については、内地で再度課税されることはない。
鉱区税

1年ごとに鉱区1000坪あたり1円を賦課した。
宗教南洋神社南洋神社の祭りテニアン島の住吉神社跡

元来、島民は伝統的なアニミズム信仰を持っていたが、スペインによる植民地化に伴ってキリスト教が広く普及し、この頃には完全に定着していた。旧宗主国人であるスペイン人の聖職者がバチカンから派遣され、島民の教化に務めた。またパラオではモデクゲイという土着の新宗教が誕生し、信者を増やしつつあった。

在留日本人の増加に伴い、新たに仏教寺院が進出してきた。しかしその寺の多くが、日本人が多いパラオ支庁やサイパン支庁の管轄区域に偏在していた。海外布教に熱心な天理教はパラオを拠点に置き、島民を対象とした布教活動をしていた。

神社も在留日本人の増加に連動して各地に創建された。有志による創建のため、その多くが無格社であったが、1940年(昭和15年)に南洋群島総鎮守として官幣大社の南洋神社が創建された。
管内神社一覧
パラオ支庁管内


南洋神社

朝日神社

清水神社

瑞穂神社

ペリリュー神社

アンガウル神社

サイパン支庁管内


八幡神社

南興神社

南陽神社

彩帆神社

カラベラ神社

天仁安神社

住吉神社

和泉神社

橘神社

日之出神社

羅宗神社

ロタ神社

大山祇神社

ヤップ支庁管内


弥津府神社

フハエス神社

トラック支庁管内


都洛神社

ポナペ支庁管内


照南神社

春来神社

明治神社

ヤルート支庁管内


マーシャル神社

経済南洋興発ガラパン出張所南洋興発産業用軌道
農業
南洋興発によるサトウキビ栽培が最も大きな産業であった。当時のサイパン島の植生は現在とは異なり、南大東島のように平地のほとんどがサトウキビ畑で占められていた。その他、パイナップルコーヒー豆の栽培も行われた。また島民は自己消費のためにタロイモなどを栽培していた。
畜産業
牧草がよく繁茂することから、畜産業も盛んであった。ブタは諸島全域で飼育されていたが、ウシはサイパン支庁管内、ヤギはパラオ・トラック・ポナペ各支庁管内で飼育されているなど地域差があった。
鰹節の生産(チューク諸島)漁業
辺り一帯はカツオが一年中生息しているため、日本の漁師がはるばる遠洋漁業をしに来訪してきた。やがて、このカツオを原料とした鰹節の生産が現地で始まり、「南洋節」の名で大いに市場を拡大した。
林業
南洋諸島ではヤシが多く生育しており、胚乳を乾燥させたコプラはこの地域の主要な特産物であり、島民の貴重な収入源になった。その反面、木材に使えるような樹木はほとんどなかった。
鉱業
リン鉱石鉱床が南洋諸島各地に存在しており、アンガウル島ではドイツ統治時代より採掘が行われた。またアルミニウムの原料となるボーキサイトの鉱床も存在していた。
商業
南洋庁の統治開始により、日本人商人が南洋諸島に多数移住した。彼らの多くはサイパン支庁やパラオ支庁管内に居を構え、日本人街を構成した。またコプラの仲買のためにその他の地域にも進出する商人もいた。
工業
南洋興発の製糖工場が特に有名であるが、他にも鰹節製造工場や泡盛の酒造所が存在していた。パラオではパイナップル缶詰の製造工場などがあった。
金融業
従来は郵便局があるのみで、民間の金融といえば無尽講しかなかった。昭和に入り、ようやく信用組合が設立されるようになった。そして1936年(昭和11年)に設立された特殊法人南洋拓殖は金融業も事業として認められ、南洋諸島唯一の日本銀行代理店でもあった。
交通

大日本航空による航空路線も整備されつつあったが、一般的には海路が利用された。海路には大きく3種に分けることができる。
内地群島間航路 - 日本郵船が担当し、サイパン丸、パラオ丸、山城丸が就航した。


西廻線(横浜 - 父島 - サイパン - テニアン - ロタ - ヤップ - パラオ - ダバオ - マナド

東廻線(横浜 - 父島 - サイパン - トラック - ポナペ - クサイ - ヤルート)

サイパン線(横浜 - 父島 - サイパン)

群島内離島間航路 - 南洋汽船・南洋貿易が担当


マリアナ群島線

ヤップ・パラオ離島線

ポナペ離島線

マーシャル群島線

環礁内航路 - 運送組合・個人が担当(南洋庁が補助金を支給し維持)


パラオ各線

トラック各線

ポナペ各線

ヤップ各線

帰還と追悼施設


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