日本の委任統治領となったが、領土ではなかったため、大日本帝国憲法が適用されない地域であった[3]。立法も法律ではなく勅令で行われた[3]。帝国議会の内地法も原則として適用されず、それを適用するには勅令で依用する手続が必要だった[3]。 ドイツ領だった島々は第一次世界大戦の日本による占領でまず軍政が敷かれ、1914年(大正3年)12月に臨時南洋群島防備隊条例が発布された[15]。この条例で5民政区が設置され各民政区に守備隊が設置された[15]。その後、1918年(大正7年)に臨時南洋群島防備隊司令官の下に民政部が設置された[15]。 日本の委任統治地域となるにあたり、行政制度の改革が図られ、まず1921年(大正10年)に民政部と司令部を分離した[15]。1922年(大正11年)3月には南洋群島防備隊条例を廃止して軍隊を撤収し、新たに南洋庁を設置することになった[15]。 南洋庁の行政組織は1922年(大正11年)3月31日勅令第107号「南洋庁官制」で定められた[16]。 南洋庁の地方行政組織として支庁と支庁出張所が設置された[17]。支庁長は職権または特別の委任により支庁令を発することができた[17]。 支庁は南洋諸島を6つの地域に分けて設けられた。この地域区分は、戦後の太平洋諸島信託統治領の地区(District)にも概ね踏襲されている。 日本人が多く住む地域が形成されるに至り、昭和6年南洋庁令第7号「南洋群島部落規程」で「部落」が設置され、その長として名誉職の総代と副総代が置かれた(任期3年)[18]。また総代の諮問機関として「部落協議会」が設けられた[18]。1939年時点に於いて部落が設置されていた所は下記の通りである。 「南洋群島部落規程」は現地の島民には適用されず(同規程附則)、大正11年南洋庁令第34号「南洋群島島民村吏規程」が適用された[19]。この規程により島民から「村吏」が登用された[19]。このうちカナカ族には「総村長」と「村長」が、チャモロ族については「区長」と「助役」が置かれた[19]。カナカ族の場合は旧慣の酋長制度に従って原則として酋長の一家から支庁長が村吏を任命した[20]。チャモロ族には酋長制度がなかったため住民の推挙により支庁長が村吏を任命した[20]。 日本の占領後、軍政が敷かれ、1915年(大正4年)10月に南洋群島刑事民事裁判令が制定された[21]。1918年(大正7年)の軍政庁廃止後、南洋群島防備隊民政署に裁判事務が移管された[21]。 1922年(大正11年)4月の南洋庁設置により、南洋群島裁判令が公布され、南洋庁長官直属の南洋庁法院が民事刑事事件を扱った[21]。ただし、先述のように南洋群島は日本の委任統治領であったが、領土ではなかったため、大日本帝国憲法が適用されない地域であった[3][22]。そのため南洋群島に設置された法院は、同憲法57条の「裁判所」でも同憲法60条の「特別裁判所」でもない実質上の裁判機関であった[22]。裁判官の資格や身分保障に関する法律の適用はなく、南洋庁長官の監督を受けるものとされ、行政官が裁判官を担っており司法権は独立していなかった[3][22]。 南洋群島裁判令は二審制を採用し、第一審法院を「地方法院」、第二審法院を高等法院と称した[21]。地方法院はパラオ、サイパン、ポナペに置かれ、高等法院はパラオに置かれていた[3]。 「南洋群島裁判事務取扱令」により、南洋諸島には刑法・民法等の日本の諸法令を適用していたが、一部の事項については特例を設けていた。
行政
官治行政機構南洋庁庁舎南洋庁ポナペ支庁
サイパン支庁(後に北部支庁)
テニアン出張所
ロタ出張所
パラオ支庁
ヤップ支庁(後に西部支庁)
トラック支庁
ポナペ支庁
ヤルート支庁(後に東部支庁)
自治行政機構
パラオ支庁管内
コロール町(コロール島)
サイパン支庁管内
ガラパン町
チャランカ町
北村
南村
東村(以上サイパン島)
テニアン町(テニアン島)
トラック支庁管内
夏島町(トノアス島)
ポナペ支庁管内
コロニア町(ポナペ島)
司法
南洋庁法院
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