南洋諸島
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日本による南洋諸島の統治継続を妨害しない意思表明をするとともに、自国の主権の範囲を改めて明らかにした[9]

1941年(昭和16年)にはパラオ放送局が開局し、ラジオ放送が開始された。
第二次世界大戦サイパンの戦い末期、民間人投降を呼び掛けるアメリカ海兵隊員詳細は「ギルバート・マーシャル諸島の戦い」および「マリアナ・パラオ諸島の戦い」を参照

第二次世界大戦においては南洋諸島も戦場となった。1941年12月から1944年(昭和19年)初頭頃までは平穏だったが、その後日本軍アメリカ軍オーストラリア軍ニュージーランド軍イギリス軍連合国軍の間で熾烈な戦闘となり、多くの戦死者を出した。

一連の戦いの嚆矢となったのは、1944年2月に行われたクェゼリンの戦いからで、1週間の戦闘の末同島の守備隊は玉砕した。さらに同月にはアメリカ軍によるトラック島空襲も行われ、トラック環礁にあった日本海軍の拠点が無力化された。

1944年(昭和19年)6月、戦略上最重要拠点の一つであったマリアナ諸島に対して連合国軍は侵攻を開始した。サイパン島での戦闘は凄惨を極め、在住日本人1万人および島民700人が戦死または自決した。7月にはテニアンの戦いが行われ、テニアンでも多数の民間人が犠牲になった。その後、サイパンおよびテニアンは日本本土を空襲する拠点となり、特にテニアン島原子爆弾を搭載した爆撃機の発進基地となった。

1944年(昭和19年)9月、アメリカ軍はパラオ諸島への侵攻を開始し、第1海兵師団ペリリュー島に上陸させた。このペリリューの戦いにおいて、日本軍は従来の戦術からゲリラ戦と縦深防御戦術に転換したためアメリカ軍に出血を強要し、73日間の戦闘で日本軍の戦死者とほぼ同数である10,786名の死傷者を出している[10]

ペリリューの戦い以後、1945年(昭和20年)8月15日日本の降伏まで、連合国軍による南洋諸島での大規模な軍事行動は起こらなかった。しかし、連合軍によって日本本土との補給線を断たれた孤島では飢餓に見舞われ、ウォッジェ環礁ウォレアイ環礁などでは多数の餓死者を出した。

1945年(昭和20年)8月30日、南洋庁長官と日本海軍指揮官が米国海軍に降伏して委任統治は実質的に終了した[3]

終戦時の南洋諸島の在留日本人は約5万人で、そのうち約3万6千人が沖縄県人だった[11]
アメリカの信託統治詳細は「太平洋諸島信託統治領」および「信託統治#太平洋諸島」を参照

第二次世界大戦終結後、1947年4月2日に国際連合安全保障理事会決議21が採択された。これにより南洋群島における日本の委任統治は法的にも終了した[12]。同年4月2日に安全保障理事会で承認された信託統治協定は、アメリカ合衆国を施政権者とする信託統治に付するもので、米国上下両院の合同会議による承認と大統領の署名により同年7月18日に発効した(米軍の軍政から信託統治領政府に移管)[13]
人口1930年代に撮影されたチャモロ人の少女たち1930年代に撮影されたクサイ(コスラエ)島民

総人口 129,104人(1939年12月末時点[14]

内訳

日本人(台湾人・朝鮮人を含む) 77,257人

島民(チャモロ人カナカ人) 51,723人

外国人 124人



民族構成
日本人(台湾人・朝鮮人を含む)
領有当初は数十人しかいなかったが、1939年頃には7万人以上にも達し、原住民の島民の人口を超えつつあった。
南洋興発が開発したサイパン支庁管内に至っては、島民人口約3千人に対し4万人以上が住んでおり、サイパン支庁管内の主要民族を構成していた。次に多いのがパラオ支庁管内であった。本籍別にみると沖縄県民が最も多かった。そのため当時の特産物の一つが泡盛であった。
島民
先住民族であるチャモロ人やカナカ人は「島民」というカテゴリに入れられた。委任統治という統治形態が採られていたので、朝鮮人や台湾人のように日本国籍は付与されなかった。

チャモロ人

南洋庁では、島民の中でチャモロ人を別格扱いにしていた。当時のチャモロ人は、洋風家屋に住み、常に洋服を着用し、ピアノを弾いたり、ダンス[注釈 3]を踊ったりするなど、日本人以上に西洋的な生活習慣を身に着けていた。スペイン語の影響を受けたチャモロ語を話し、教養水準も比較的高かったことから、日本統治下においてはカナカ人より優遇され、歴代の植民地政府の補助要員を務める者もいた。主にマリアナ諸島に住んでいたが、ヤップ島にも住む者[注釈 4]がいた。

カナカ人

チャモロ人以外の島民を全て「カナカ人」と称していた。オセアニア諸民族の総称であるため「カナカ語」ともいうべき言語は存在せず、島によって別の言語が話されていた。衣服も腰蓑といった「南洋の情緒」を感じさせる服装であったが、歴代の植民地政府の指導もあり、次第に廃れつつあった。マリアナ諸島以外の地域に多く住んでいたが、マリアナ諸島のサイパン島にはカナカ人の一種族で、カロリン諸島から移住してきたカロリン人が住んでいた。
その他の外国人
その他の外国人の多くがキリスト教の宗教関係者や商人で、旧宗主国人のスペイン人やドイツ人が比較的多かった。戦後に新たな宗主国人となるアメリカ人は、当時十人程度しかいなかった。
立法

日本の委任統治領となったが、領土ではなかったため、大日本帝国憲法が適用されない地域であった[3]。立法も法律ではなく勅令で行われた[3]。帝国議会の内地法も原則として適用されず、それを適用するには勅令で依用する手続が必要だった[3]
行政

ドイツ領だった島々は第一次世界大戦の日本による占領でまず軍政が敷かれ、1914年(大正3年)12月に臨時南洋群島防備隊条例が発布された[15]。この条例で5民政区が設置され各民政区に守備隊が設置された[15]。その後、1918年(大正7年)に臨時南洋群島防備隊司令官の下に民政部が設置された[15]

日本の委任統治地域となるにあたり、行政制度の改革が図られ、まず1921年(大正10年)に民政部と司令部を分離した[15]。1922年(大正11年)3月には南洋群島防備隊条例を廃止して軍隊を撤収し、新たに南洋庁を設置することになった[15]
官治行政機構南洋庁庁舎南洋庁ポナペ支庁

南洋庁の行政組織は1922年(大正11年)3月31日勅令第107号「南洋庁官制」で定められた[16]

南洋庁の地方行政組織として支庁と支庁出張所が設置された[17]。支庁長は職権または特別の委任により支庁令を発することができた[17]

支庁は南洋諸島を6つの地域に分けて設けられた。この地域区分は、戦後の太平洋諸島信託統治領の地区(District)にも概ね踏襲されている。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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