南洋諸島
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北マリアナ諸島

南洋諸島(なんようしょとう、旧字体:南洋諸󠄀島)は、かつて大日本帝国国際連盟によって委任統治を託された西太平洋赤道付近に広がるミクロネシアの島々を指す。現在の北マリアナ諸島パラオマーシャル諸島ミクロネシア連邦に相当する地域である。

別名は南洋群島(なんようぐんとう)。当時の日本人は内南洋(うちなんよう)とも言った[注釈 1]
歴史
前史前近代の歴史については「スペイン領東インド」及び「ドイツ領ニューギニア」も参照

この地域は16世紀初めにポルトガルの航海者によって発見された[1]17世紀初頭よりスペインはこの地一帯を植民地化し、フィリピンと共に「スペイン領東インド」を形成していた。同地のマリアナ諸島やカロリン諸島という地名は、それぞれマリアナ王妃カルロス2世国王に由来する。

その後、1899年(明治32年)にドイツの植民地となった[1]1885年にドイツはマーシャル諸島を占領。そして、米西戦争で負けたスペインにスペイン領東インド(フィリピン、グアムを除く)の売却を持ちかけ、2500万ペセタで買い取った。ドイツはカイザー・ヴィルヘルムスラント(現在のパプアニューギニア北部)と合わせて、「ドイツ領ニューギニア」を成立させた。

南洋諸島への日本企業の進出は明治時代には始まっており、1890年(明治23年)に田口卯吉が南島商会を組織して帆船天祐丸により交易を行って帰港したのを嚆矢とする[2]

1914年(大正3年)に第一次世界大戦が始まると、日本は日英同盟に基づいて連合国の一員として参戦し、ドイツ領だったこれらの島々を無血占領した[3]。同年10月には特別陸戦隊が進駐し、同年12月には臨時南洋群島防備隊条例(大正3年内務省令401号)により臨時南洋群島防備隊が設置された[3]。そしてサイパンパラオトラックポナペヤルートの5つの民政区に分け、それぞれ守備隊が配置された[1]1915年(大正4年)にはパラオ民政区のパラオ守備隊の分隊が置かれていたヤップにヤップ民政区を新設し、ヤップ分遣隊をヤップ守備隊に改め、同時に各守備隊に民政事務官各1名を配置した[1]。同年7月31日、南洋群島から酋長(原文ママ)ら22人が訪日、石貨などの土産が話題を呼ぶ[4]。同年9月にはポナペ守備隊の分隊であるクサイ分遣隊を廃止して、ポナペ守備隊付海軍書記を派遣して同島の民政事務にあたらせた[1]

1914年末の南洋群島の在住日本人数は、サイパン島27人、ポナペ島2人、トラック諸島12人、ヤップ島18人、パラオ島25人、アンガウル島11人であった[5]

1915年(大正4年)には民政区を再編しパラオ民政区とヤップ民政区を東経137度以東の西カロリン群島と、同以西の西カロリン群島とに分割した[1]。さらに1918年(大正7年)に民政区の区分を改正して、ヤルート政区に属した東経164度以西のマーシャル群島の一部をボナぺ民政区に移管した[1]

1918年(大正7年)にドイツが降伏して第一次世界大戦は終結した。
日本の委任統治日本統治時代のコロール(4丁目)東京を訪問した南洋諸島の人々。1915-1920年頃

第一次世界大戦での敗退によってドイツは海外植民地をすべて失った。

日本は1919年(大正8年)6月に調印されたヴェルサイユ条約によって赤道以北の旧ドイツ領の地域を委任統治することとなった(同条約22条6項、C式委任統治地域)[3]。なお、赤道以南の旧ドイツ領ニューギニアの地域については、ニューギニアオーストラリアサモア諸島ニュージーランドが委任統治することになった[6]

日本は南洋群島の施政制度を改め、1921年(大正10年)7月に民政部を司令部と分離してパラオ島に移転した[6]1922年(大正11年)には委任統治に適した体制を構築して従来の軍政色を払拭するため、臨時南洋群島防備隊を撤収して新たに南洋庁を設置した[3]

また、西村拓殖と南洋殖産の事業を引き継ぐ形で、東洋拓殖株式会社の投資により南洋興発株式会社が資本金300万円で設立され島の開拓、日本人移民の導入、製糖工場や酒精工場の建設、鉄道の建設など様々な事業を行った[7]

南洋諸島では時差があり、南洋群島東部標準時(ヤルートポナペ地区)が日本標準時+2時間(UTC+11)、南洋群島中部標準時(トラックサイパン地区)で日本標準時+1時間(UTC+10)、南洋群島西部標準時(ヤップパラオ地区)は日本標準時と同じ(UTC+9)であった。1937年(昭和12年)、南洋群島東部標準時(トラック・ポナペ・ヤルート地区。日本標準時+1時間)と南洋群島西部標準時(パラオ・ヤップ・サイパン地区。日本標準時と同じ)の2つに再編した。

1933年(昭和8年)、日本が国際連盟を脱退すると委任統治の根拠に疑義を呈せられたため、同年3月16日「帝国の国際連盟脱退後の南洋委任統治の帰趨に関する帝国政府の方針決定の件」を閣議決定し、南洋庁告諭(南洋庁告諭昭和8年1号)を示して引き続き委任統治を行った[3][注釈 2]

1933年(昭和8年)には日本人在住者は3万人を超え、翌年6月末には南洋群島の人口は11万3562人で現地島人4万406人、日本人7万3028人、外国人119人となった[5]

1935年1月19日、国際連盟理事会は委任統治委員会から提出された日本の委任統治領その他に関する報告を審議して採決。委任統治に関する意見は出ず、事実上日本による統治の継続が黙認されることとなった[8]。なお、同日、アメリカ合衆国は委任統治領に隣接するウェーク島キングマン・リーフジョンストン島、サンド島(ミッドウェー島)の所管を内務省から海軍省に移管することを発表。日本による南洋諸島の統治継続を妨害しない意思表明をするとともに、自国の主権の範囲を改めて明らかにした[9]

1941年(昭和16年)にはパラオ放送局が開局し、ラジオ放送が開始された。


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