南沙諸島
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中華人民共和国からも2020年までにクルーズ船の就航が予定されている[13]。観光地として開発されることで、政府にとっては実効支配の正当性が強化されるという利点がある。

各島とも、各国の政府にとっては海洋の権益を確保する存在であり、軍にとっては国防の最前線であり、また観光業界にとっては有望な観光資源であるという複雑な状況にある。
領有権をめぐる歴史

中華人民共和国政府は、二千年前の『異物志』(後漢の楊孚の著)に基づいて「漲海崎頭」(南海諸島もしくは南シナ海沿岸地形)を中国人が発見したと主張している。しかし、その約200年後の『南州異物志』(三国時代・呉の萬震の著)には、「外徼大舶」(外国の大船)が「漲海崎頭」を発見したと記載されており[14]、中華人民共和国の南海研究院院長・呉士存が自著『南沙爭端的起源與發展』(2010年)で引用した「外徼大舶」が、英訳本ではboats used by foreignersと訳されている[15]

の官修地誌では、領土の最南端は海南島とされており、南沙諸島は清の領土線の外であった。官修地誌以外の民間著作でも、清の中晩期の『南洋蠡測』(顔斯綜の著)中に「萬里石塘」の記載があり、「此の塘を以て華夷中外の界を分かつ」と記述されている。境界線の位置は海南島の南の西沙諸島付近であった。また清の乾隆年間の『?遊紀略』(陳洪照の著)では、海南島付近と推定される「七州洋」を「中外之界」としている[15]
ベトナムを植民地支配していたフランスによる領有

清仏戦争後、フランス領インドシナとしてベトナムを植民地支配していたフランスが、1930年からいくつかの島々を実効支配し、1933年4月にフランス軍が現在の太平島を占拠し、日本人を退去させた。ベトナム南部の総督M. J. Krautheimerが、同年12月21日に4702-CP号政府決定により、当時のバリア省の一部とした。1935年4月フランスが30人のベトナム人を太平島に移住させる。1945年の日本の敗戦以降、空白となった南シナ海の島々をフランス軍はいち早く占領したが、ベトナム内戦の影響ですぐに撤収した[8]
日本による領有

1907年に日本漁船が現在の太平島付近で操業を開始し、1929年4月に日本人が太平島での燐鉱採掘事業を開始した。世界恐慌の影響を受け間もなく採掘は中止となり、日本の業者は離島する。1933年4月にフランス軍が太平島を占拠し、日本人を退去させた。1935年に平田末治と海軍省台湾総督府が協力して開洋興業株式会社を設立。1936年12月に開洋興業が太平島で燐鉱採掘調査を実施。1938年にフランス軍やベトナム漁民を追い出し占領した日本が領有を宣言し、「新南群島」と命名した。

1939年(昭和14年)2月中旬、日本軍は海南島を軍事占領し、中華民国国民政府?介石は「太平洋上の満洲事変」と表現して反発、欧米列強も抗議の意志を表した[16]。この状況下、日本政府は「大正6年以来 我が国人は何国人にも先立って巨額の資本を投下し恒久的諸施設を設けて同島嶼の経済的開発に従事し来った」と主張して、新南群島の領有を宣言した[17]。3月30日付の台湾総督府令第31号により、新南群島が日本の領土として台湾高雄州高雄市に編入された[18][注 1]。3月31日、外務省はフランス駐日大使のシャルル・アルセーヌ=アンリ(フランス語版)を招いて本件を通告し、4月18日の官報で内外に公告した[17]フィリピンボルネオ島インドシナ半島マレー半島など近隣に植民地を抱えていた列強各国(アメリカ、イギリス、フランス、オランダ)に与えられた脅威は大きく、特にアメリカは具体的な対日制裁措置を進めた[19]

1945年の第二次世界大戦終結まで日本が支配を続けたが、日本海軍は終戦まで新南群島に有力な軍事基地の建設を行わなかった[17]。1939年の台湾総督府告示第122号による新南群島中における主なる島嶼は、北二子島南二子島西青島三角島中小島亀甲島南洋島長島(後に中華民国が太平島と命名)、北小島南小島飛鳥島西鳥島丸島である。資源開発としてリン鉱石採取の従事者が在住していたが、戦火の拡大により撤退し、終戦を迎えた。

戦後の日本政府は「第二次大戦後の日本の領土を法的に確定したのはサンフランシスコ平和条約であり、カイロ宣言ポツダム宣言は日本の領土処理について、最終的な法的効果を持ち得るものではない。」との立場をとっている[20]

1952年(昭和27年)発効のサンフランシスコ平和条約の第2条では、台湾島および澎湖諸島、新南群島(スプラトリー諸島)および西沙群島(パラセル諸島)の領土権(権利、権原および請求権)の放棄について明記されているが、放棄後どの国に帰属するかは取り決められていない。また、サンフランシスコ講和会議に招請されなかった中華民国との間に結ばれた日華平和条約の第2条では、日本は台湾島および澎湖諸島、新南群島および西沙諸島の領土権(権利、権原および請求権)の放棄について承認しているが、同条約第3条では、台湾島および澎湖諸島としか記載されていないため、新南群島および西沙諸島が放棄後どの国に帰属するかは取り決められていない(サンフランシスコ平和条約、日華平和条約の条文を参照)。
中華民国による領有権主張

1945年に主権回復を宣言した。中華民国国民政府は「太平号」など4隻の軍艦を派遣して、1946年末までに主だった島々の占領を終え、測量を行って「南海諸島位置図」を作成した[8]。その後の中華民国(台湾)は、南シナ海は「中華民国の領土」との位置づけは変えずに、軍用空港を有する太平島(南沙諸島の北部に位置する南沙諸島最大の島でティザード堆の一部を形成。高雄市の一部として実効支配)と東沙諸島(実効支配)の現状維持に徹して、中華人民共和国のように新たに島を占領するなどの行為は行っていない[8]
フィリピンによる領有権主張

1971年、マルコス政権が南沙諸島の領有を主張し、パグアサ島 (中業島) など6島礁に軍を送って占領した[21]。1994年に排他的経済水域に関する規定が定められた国連海洋法条約が発効すると、中沙諸島のスカボロー礁周辺海域の管轄権を主張した。2009年には「領海基線法」を制定し、南沙諸島の一部の島・礁(太平島を含む)および中沙諸島のスカボロー礁を正式にフィリピンの領土とした。フィリピンは、南沙諸島において滑走路を有するパグアサ島をはじめとする島や砂州を10か所近く実効支配している。数においては、ベトナム、中国に次ぐ3番目である。
南ベトナムによる領有権主張

1951年のサンフランシスコ講和条約で日本が領有権を放棄した後、1956年10月22日に南ベトナム政府が143/NV号大統領決定により、バリア省の一部と併せフックトゥイ省(Ph??c Tuy省、1956年 - 1975年。現在のバリア=ブンタウ省)とした。
中華人民共和国による領有権主張

1953年中華人民共和国は、中華民国の「十一段線」のうち、当時は関係が良好であった北ベトナム付近の2線を削除し、新たに「九段線」とした。1958年には「領海宣言」を出し、南シナ海の島々を含めた海域の領有を宣言した[8]。1973年9月に南ベトナムが再度フックトゥイ省への編入を宣言したことに対し、翌1974年1月に抗議声明を出して領有権主張を本格化させていく。
中華人民共和国とベトナムとの軍事衝突
西沙諸島の戦い (1974年)

1974年1月に西沙諸島の領有権をめぐり中華人民共和国と南ベトナムが交戦する西沙諸島の戦いが勃発した。


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