南極海
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これは南極底層水とよばれ、グリーンランド沖で作られる北大西洋深層水とともに深海に沈み込む水塊として、熱塩循環(海洋大循環)の重要な要素となっている[17]。南極海においては、あと二つ重要な水塊が存在する。周極深層水は北大西洋深層水を起源とする暖かく高塩分な水塊であり、大陸棚に流入することで南極氷床が融解させる原因となっている。このほか、さらに北側において形成される南極中層水がある。この水塊は上記の2つの水塊よりさらに温かいため、深層まで流れ下らずに中層でとどまり、そこで広がる。南極底層水と南極中層水は、大西洋・インド洋・太平洋の三大洋すべてに流入する[18]

南極周極流のさらに南側には、ウェッデル循環(Weddell Gyre)とロス循環(Ross Gyre)の2つの亜寒帯循環(環流)が存在する。いずれもウェッデル海とロス海の周辺のみを、時計回りに回る環流である。他の南極海沿岸域では、南極環流が大陸に接近しており、沖合の暖水が大陸棚に流入しやすい状況になっている。
海底

南極海の海底は、南極大陸の大陸棚部分を除けば、広い海盆によって取り巻かれている。南極半島から延びる南スコシア海嶺はスコシア海南縁沿いにサウスサンドウィッチ海溝まで伸び、さらに東に南アメリカ南極海嶺が続くが、これらの海嶺の南方にウェッデル海盆が広がる。ブーベ島南方を境にエンダービー海盆が大西洋南端の中ほどからインド洋南端の中央部まで広がり、ケルゲレン海台によって終わる。海台の東側からはオーストラリア南極海盆が広がり、北のニュージーランドから延びてくるマッコーリー海嶺で終わる。マッコーリー海嶺の東側には太平洋南極海嶺が東西に延びるが、この海嶺はやがてアムンゼン海の北付近でより北へ向きを変え、かわってアムンゼン海盆、ベリングスハウゼン海盆が広がる。この海盆の東端は南極半島である。

南極海の海底には、陸地から流出した堆積物が厚く堆積している。他大洋と違い、この堆積物は河川から流入したものではなく、氷河から流入したものである。南極大陸の厚い氷床から張り出した棚氷は氷山となって南極海へと流れだすが、この氷山には氷床の下の大陸から削り出された石や砂が多量に含まれている。氷山は南極海内にてほぼ溶けるが、この際に氷山に含まれていたも海中に放出され、その下の海底へと堆積するのである。氷山がの役割を果たすため、河川からの堆積物に比べ氷山からの堆積物はより陸地から離れたところにまで到達する。河川による堆積物は川を流れていく最中で細粒化され細かい泥となって堆積するが、氷河ではそういった細粒化の働きが小さいため、氷河からの堆積物はから細かい砂にいたるまでさまざまな大きさのものを含み、均一化されていない点に特徴がある。この氷河堆積物地帯は、南極大陸をぐるりと取り囲んでおり、南極大陸からおよそ1000km沖合にまで厚く堆積し層をなしている[19]。この氷河堆積物地帯の北側には、珪藻を起源とする軟泥が、やはり南極大陸を取り巻くように分布している。他大洋と違い、南極海に接する大陸は南極大陸のみであり、南極大陸には流水がほぼ存在しないため、南極海に流入する恒久河川は存在しない。また、南極海沿岸のほとんどは氷におおわれているため、波による海岸の浸食がほとんど存在しないことも特徴である[20]
探検史

人類史上初めて南極海を周航したのは、ジェームズ・クックである。彼は1772年から1775年にかけての第2回航海で英国軍艦レゾリューション号を指揮して南極海を周航し、1773年1月17日にはヨーロッパ人としてはじめて南極圏に突入し、南緯71度10分まで達したが、南極大陸を発見することはできなかった。しかし彼の航海によって、南方の未確定領域は大幅に狭められ[21]、伝説の南方大陸(テラ・アウストラリス、メガラニカ)は存在しないことが明らかとなった[22]。クック自身は、氷山の形状などから彼が探検した海域の南方には大陸があることを予想していた[23]が、それは人類が居住できるようなものではないことも予測していた。また、クックはこの海域にクジラアザラシが多く生息していることを報告し、そのため1790年代以降にはこの海域にはアザラシ漁師たちが出没するようになった。初期の南極海探検において、こうしたアザラシ漁師たちは重要な役割を果たした。1819年にはイギリスのウィリアム・スミスがサウス・シェトランド諸島を発見した。これは、南緯60度以南においては初の陸地の発見であった。

1820年には人類は南極海を越え、南極大陸が発見された。この発見者はロシア海軍のファビアン・ゴットリープ・フォン・ベリングスハウゼン、イギリス海軍のエドワード・ブランスフィールド、アメリカ人アザラシ漁師のナサニエル・パーマーの3人のうちいずれかとされる。いずれか、というのは、この三人はほぼ同時に南極大陸を発見しており、発見日に数日程度のずれしか存在しないため、正確な発見者の確定ができないためである。また、この際ベリングスハウゼンは南極海をクックよりも高い緯度で周航している。1821年にはパーマーとイギリスのジョージ・パウエルがサウス・オークニー諸島を発見した。1830年代から1840年代初頭にかけては、ジョン・ビスコー、ジョン・バレニー、チャールズ・ウィルクスジュール・デュモン・デュルヴィルジェイムズ・クラーク・ロスといった探検家たちが南極海を航行し、多くの発見を成し遂げている。ウィルクスの航海によって南極大陸の海岸線の70%程度はほぼ確定し、ロスはエレバス山やロス棚氷などを発見している。

1874年にはチャレンジャー号探検航海中のチャレンジャー号ケルゲレン諸島から南極海へと突入し、調査を行った[24]

ここまでの調査は南極海の調査というより南極全般の調査であったが、南極海を専門の対象とした調査は、1925年にイギリスによって開始されたディスカバリー号調査を嚆矢とする。この調査は第二次世界大戦の勃発まで10回にわたって行われ、南極海のデータを収集するのに大きな役割を果たした[25]

1940年代以降、複数の国家が南極海および南極の領有を宣言するようになり、1952年には南極海最良の港であるデセプション島において、領有を主張するイギリス軍とアルゼンチン軍の間で発砲騒ぎも起きている[26]。一方、第二次世界大戦後、チリやアルゼンチンなど数か国が南極に観測基地を設置していたが、1957年から1958年にかけての国際地球観測年によって参加各国が南極大陸の海岸にまんべんなく南極観測基地を設置し、協力体制が構築された。


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