南朝_(中国)
[Wikipedia|▼Menu]
この時期、華南にはの4つの王朝が興亡した。こちらを南朝と呼ぶ。同じく建康(建業)に都をおいた三国時代東晋と南朝の4つの王朝をあわせて六朝(りくちょう)と呼び、この時代を六朝時代とも呼ぶ。三国時代五胡十六国時代・南北朝時代を合わせて、魏晋南北朝時代とも呼ぶ。

この時期、江南(長江以南)の開発が一挙に進み、後の隋やの時代、江南は中国全体の経済基盤となった。南朝では政治的な混乱とは対照的に文学や仏教が隆盛をきわめ、六朝文化と呼ばれる貴族文化が栄えて、陶淵明王羲之などが活躍した。

また華北では、鮮卑拓跋部の建てた北魏五胡十六国時代の戦乱を収め、北方騎馬民の部族制を解体し、貴族制に基づく国家に脱皮しつつあった。北魏は六鎮の乱を経て、534年東魏西魏に分裂した。東魏は550年に西魏は556年にそれぞれ北斉北周に取って代わられた。577年、北周は北斉を滅ぼして再び華北を統一する。その後、581年に隋の楊堅が北周の禅譲を受けて帝位についた。589年、隋は漢族の南朝の陳を滅ぼし、中国を再統一した。

普通は北魏・東魏・西魏・北斉・北周の五王朝を北朝と呼ぶが、これに隋を加える説もある。李延寿の『北史』が隋を北朝に列しているためである。
北朝6世紀前半の東アジア国際関係
倭は5世紀しきりに南朝に通交したが、6世紀になると南朝との関係は502年に記事があるのを最後に途絶える。高句麗は南北両朝に遣使していたが、北朝との通交頻度が高まった。百済・新羅も6世紀後半には北朝を重視するようになり、北朝に通交するようになる
北魏

北魏の前身は代国であり、その中枢部分は鮮卑拓跋部である。代国は前秦苻堅により一旦は滅ぼされるが、苻堅が淝水で大敗したことをきっかけに再興され、その後は順調に勢力を拡大し、439年に第3代太武帝の下で華北を統一した。

しかし北魏内部で、鮮卑の習俗を守ろうとする勢力と、鮮卑の習俗を捨てて中国化を進めようとする勢力との争いが起きるようになる。中国化を進めようとする勢力の中心となったのは、主に被支配層の漢民族出身の者たちである。彼らにとっては中国化が進めば自らの立場が有利になるということでもあり、異民族が中国化すれば、異民族に支配される屈辱を晴らすことにもなる。この漢化派の代表が漢人の崔浩である。崔浩は外来宗教である仏教を排撃するために、道教教団の教祖寇謙之と手を結んで太武帝に廃仏(仏教弾圧、三武一宗の廃仏の第一)を行わせた。また崔浩は漢人官僚を多く登用するなど漢化を推し進めたが、強引過ぎる漢化は鮮卑派の反感を買い、450年に誅殺される。その後の北魏では太武帝が暗殺され、しばらくの間は混乱が続く。

この混乱を収めたのが文明皇后(馮太后)である。466年に政権を握っていた乙渾を排除し、献文帝を擁して垂簾政治を始める。後に献文帝に長男の宏(後の孝文帝)が生まれると、一旦は表舞台から引き下がるが、孝文帝の生母を殺したことで献文帝と対立し、これを廃位して孝文帝を擁立した。北魏では外戚対策として、新帝の即位後にその生母を殺すことが通例であった。文明皇太后は引き続き垂簾政治を行い、班禄制・三長制均田制などの諸制度を実行して、中央集権化・漢化を推し進めた。

490年に文明皇太后が死去すると孝文帝の親政が始まるが、基本的に文明皇太后の方針を受け継いだものであった。493年、首都をそれまでの平城(現在の山西省大同)から洛陽に移転した。同時に家臣たちの鮮卑の氏を全て中国風に改め、皇室の拓跋氏を元氏とした。更に九品を部分的に取り入れ、南朝を模倣した北朝貴族制度を形成しようとした。

これに反発した国粋派は何度か反乱を起こした。孝文帝死後にはますます激しくなり、523年に始まった六鎮の乱は全国的な規模へと広がり、北魏滅亡のきっかけを作ることになる。六鎮とは元首都の平城周辺を防衛していた6つの軍事駐屯所のことで、ここには鮮卑の有力者が配されていた。平城が首都であった時にはこの六鎮は極めて重要視され、その待遇もかなり良かった。しかし洛陽遷都により、これらは辺境防衛の一つに過ぎなくなり、待遇も下落し、ここに駐屯していた軍人たちの不満が六鎮の乱の直接的原因となった。

この乱が起きている間に、朝廷では第8代孝明帝とその生母である霊太后の間での主導権争いが起き、528年には霊太后により孝明帝が暗殺され、朝廷内外で混乱は頂点に達した。

六鎮の乱は爾朱栄孝荘帝を擁立して一旦は収まるが、爾朱栄は孝荘帝によって殺される。その孝荘帝を爾朱栄の一族が殺すが、更に爾朱栄の部下であった高歓が爾朱一族を皆殺しにし、政権を掌握した。高歓によって擁立された北魏最後の皇帝孝武帝は、高歓の専権を嫌って関中一帯に勢力を張っていた軍閥の長である宇文泰を頼って逃れた。
西魏と東魏

北魏の孝武帝が宇文泰のもとに逃げたため、高歓はそれに代わって534年孝静帝を擁立して皇帝に即位させた。これにより北魏は、宇文泰が擁する孝武帝の西魏と、高歓が擁する孝静帝の東魏とに分裂した。といっても東西の魏は、それぞれの実力者が帝位に就くための準備段階でしかなく、その皇帝は実力者の傀儡であった。

西魏では535年に宇文泰が孝武帝を殺して文帝元宝炬を擁立、その崩御後には廃帝元欽、ついで恭帝拓跋廓(元廓)が立つが、いずれも宇文泰の傀儡であった。556年10月に宇文泰が死ぬと、その後を継いだ三男の宇文覚が恭帝から帝位の禅譲を受け、西魏は滅んだ。

東魏では高歓が事実上の最高権力者として君臨していた。547年に高歓が死ぬとその長男の高澄と次男の高洋が相次いで権力を継承した。550年、高洋は孝静帝から帝位の禅譲をうけ、東魏は滅んだ。
北斉

東魏では高歓が全権を掌握した後に、西魏に対して何度か攻撃を仕掛けるが、芳しい結果は得られなかった。高歓は547年に死去し、その後を息子の高澄が継ぐ。この時期に河南の長官であった侯景は自らの軍事力が高澄に警戒されていることを知り、東魏から離脱して南のに帰順した。これを接収するために梁の武帝は大軍を送るが、東魏軍に大敗して河南は東魏に戻る。この後、侯景による挙兵が起きて梁は大混乱に陥ることになる(侯景の乱)。

高澄の死後、550年に高澄の弟である高洋(文宣帝)が継ぎ、東魏の孝静帝より禅譲を受けて斉を建てた。南朝の斉と区別して北斉と呼ばれる。

高洋の治世初期は諸改革を進め、北の突厥契丹を撃破するなど治績を挙げたが、後半期は旧魏の皇族である元氏を大量に殺害するなど暴虐を尽くすようになる。

その後、高洋の皇太子の高殷を殺して弟の高演(孝昭帝)が後を継ぎ、高演の皇太子を殺して高湛(武成帝)が後を継ぐ。北斉の君主には多く酒乱の傾向が見られ、政治は乱れていた。ただ、歴代君主は酒乱と同時に軍事的才能を持っており、北周に対して軍事的には互角以上に渡り合った。

武成帝は即位早々に息子の高緯(後主)に譲位し、その後は上皇として政務を執るが、この時代には個人的なつながりを持った寵臣たちが幅を利かすようになった。この中で後主は、周りの讒言を信じて国防に不可欠であった斛律光蘭陵王の2人を殺してしまい、北周はこれを好機と見て北斉へと侵攻してきた。高緯は捕らえられて、後に自殺を強いられた。北斉の滅亡は577年のことである。
北周

西魏の政権を掌握した宇文泰は武川鎮の出身で、北魏末には陝西一帯を支配する大軍閥となっていた。北周・後のの中枢部はほぼ全てがこの武川鎮出身者(武川鎮軍閥)で占められており、以後の中国を長い間この集団が支配することになる。

宇文泰は新たに二十四軍制を創始した。この制度は軍の組織を上から柱国(ちゅうこく) - 大将軍 - 開府という系列にまとめ、その頂点に宇文泰が立つというものである。この制度は後の府兵制の元となったといわれる。

また北魏の元で漢風に改められた鮮卑の氏を元のものに戻すなど、鮮卑的な復古政策を取る一方で、『周礼』を基にしたとする中国的な復古策をも推進した。後に国号を周と名乗るのもそれ故である。この兵力を元に、553年には南朝から四川を奪い、更に侯景の乱に介入し、荊州北部(湖北省)に傀儡国家・後梁を誕生させて、南朝に楔を打ち込むことに成功した。

556年の宇文泰の死後は甥の宇文護が実権を握り、宇文泰の第3子・宇文覚を擁立して西魏の恭帝より禅譲を受けさせ、北周を建てた。宇文護は初代の宇文覚(孝閔帝)・第2代の宇文毓(明帝)・第3代の宇文?(武帝)を擁立して専権を極め、突厥と結んで北斉征服を試みるが失敗に終わり、最後は武帝の策にはまり誅殺される。

572年に親政を開始した武帝は、巨大な権力と財産と土地を所有していた道教・仏教を弾圧してその財産を没収し、私度僧や偽濫僧などを含め、一般の僧侶や道士を兵士として徴兵した。その一方で、官立の儒教・仏教・道教をあわせた三教の研究機関としての通道観を設置し、優秀な僧侶や道士は、その学士として収容した(三武一宗の廃仏の第2)。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:44 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef