南太平洋海戦
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アメリカ軍側の呼称はサンタ・クルーズ諸島海戦(Battle of the Santa Cruz Islands)[3]。日本軍は空母翔鶴瑞鳳が大破・中破という損害を受けたものの、米空母ホーネットを撃沈、空母エンタープライズを中破という戦果を挙げ、戦術的には日本軍の勝利であった[4]。しかし多数の航空機と搭乗員を失い、また戦闘の主目的であるガダルカナル島飛行場も占領できなかった[5]
概要

ガダルカナル島における日米の戦いにおいて、最も重要な役割を担った同島ヘンダーソン飛行場基地をめぐって行われた日米主力機動部隊の海戦[6]。1942年(昭和17年)10月下旬、ガダルカナル島の日本陸軍第十七軍が米軍支配下のヘンダーソン飛行場に総攻撃を実施することになり、日本海軍は空母機動部隊を含む多数の水上艦艇を投入して支援にあたることとなった[7]。これを阻止するためアメリカ軍も空母機動部隊をサンタクルーズ諸島方面に派遣し、10月26日の本海戦に至った[8]。日本海軍はアメリカ機動部隊を撃退して戦術的には勝利を収めたが、日本陸軍のガ島ヘンダーソン飛行場に対する総攻撃は失敗した[9]。戦略的にはアメリカ軍の勝利(飛行場維持成功)に終わった[5]。日本海軍機動部隊の航空隊の消耗も甚大で、その後の日本軍の作戦行動に影響を与える[10]
背景詳細は「ガダルカナル島の戦い」を参照

1942年6月のミッドウェー海戦で日本軍主力空母4隻(赤城加賀飛龍蒼龍)を撃沈して勝利したアメリカ軍は、2か月後の8月7日ウォッチタワー作戦を発動し[11]アメリカ軍海兵隊ツラギ島フロリダ諸島)とガダルカナル島に上陸する[12]フロリダ諸島の戦い)。ガダルカナル島では、完成したばかりの日本軍飛行場を占領した[13]。この飛行場は、のちにヘンダーソン飛行場と命名された[14]

日本軍は基地航空部隊の第十一航空艦隊[注 1]と、南東方面を担当する第八艦隊[注 2]にアメリカ軍の撃退を命じ、外南洋部隊は第一次ソロモン海戦で勝利を収めた[15]。だが海軍特別陸戦隊の輸送船団はツラギ島に到着できず[注 3]8月18日にガ島に上陸した一木清直陸軍大佐の一木支隊先遣隊イル川渡河戦で壊滅し[17][18]、アメリカ海兵隊の早期撃退企図は頓挫した[19]。この間、アメリカ軍は護衛空母ロングアイランドによりヘンダーソン飛行場へ航空隊を空輸することに成功した[20][21]。これ以降、ヘンダーソン飛行場の航空隊は逐次増強され、ガ島へ向かう日本軍増援部隊は絶えず空襲に晒されるようになった[22](川口支隊第一次輸送失敗など)[23]

8月24日、日本艦隊(第二艦隊司令長官近藤信竹中将が指揮する前進部隊、第三艦隊司令長官南雲忠一中将が指揮する機動部隊)は[24]、アメリカ軍の二つの任務部隊、すなわち空母サラトガを基幹とする第11任務部隊と、空母エンタープライズを基幹とする第16任務部隊と交戦した[25](日本側呼称:第二次ソロモン海戦、連合軍側呼称:東部ソロモン海戦)[26]。この戦いでアメリカ軍は日本軍の軽空母龍驤を撃沈し、水上機母艦千歳を撃破した[27]。さらに日本軍輸送船団を航空攻撃で阻止し、勝利を収めた[注 4]。日本軍は輸送船団によるガ島増援作戦をあきらめ、駆逐艦など軽快艦艇による鼠輸送を開始した[31]。その一方、一航戦の空襲で空母エンタープライズが損傷し、真珠湾に回航されて修理をおこなった[32]

8月31日、伊号第二十六潜水艦の攻撃でフランク・J・フレッチャー中将の旗艦サラトガが大破して、長期修理を余儀なくされた[33][34]

9月12日以降、ガダルカナル島に上陸していた川口清健陸軍少将の日本陸軍川口支隊が、ヘンダーソン飛行場に総攻撃を敢行した[35][36]。支援部隊(前進部隊、機動部隊)はトラック泊地を出撃してガ島北方海面を遊弋したが[37]、川口支隊攻撃失敗によりトラック泊地に引き揚げた[38]。日本艦隊阻止のため行動していたアメリカ海軍機動部隊も、9月15日に伊19の奇襲で空母ワスプが沈没した[39][40]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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