南北朝正閏論
[Wikipedia|▼Menu]
永禄2年(1559年)、楠木正成の子孫を名乗る楠木正虎の申請によって、楠木正成は朝敵の赦免を受ける。これをもって直ちに南朝正統論が発生した訳ではないが、南朝を論じることがタブーではなくなったという点では画期と言える。また、楠木氏と同様に南朝方であった新田氏の末裔と名乗った徳川氏が政権を取ったことも状況に変化をもたらした。江戸時代に入り、林羅山親子によって編纂された『本朝通鑑』の凡例において、初めて南北併記の記述が用いられた。もっとも、息子の林鵞峰が書いた同書の南北朝期の記述では北朝正統論を採用している。

その後、水戸藩主徳川光圀が南朝を正統とする『大日本史』を編纂したことが後世に大きな影響を与えた。『大日本史』は三種の神器の所在などを理由として南朝を正統として扱った。その際、北朝の天皇についての扱いについても議論となり、当初北朝天皇を「偽主」として列伝として扱う方針を採っていたが、現在の皇室との関連もあり、後小松天皇の本紀に付記する体裁に改めたという。だが、光圀が生前に望んでいた『大日本史』の朝廷献上は困難を極めた。享保5年(1720年)、水戸藩から『大日本史』の献上を受けた将軍徳川吉宗は、朝廷に対して刊行の是非の問い合わせを行った。当時博識として知られた権大納言一条兼香(後、関白)はこの問い合わせに驚き、北朝正統をもって回答した場合の幕府側の反応(三種の神器の所在の問題)などについて検討している(『兼香公記』享保6年閏7月20日条)。この議論は10年余り続いた末に、享保16年(1731年)になって現在の皇室に差しさわりがあることを理由に刊行相成らぬとする回答を幕府に行った。だが、吉宗は同書を惜しんで3年後に独断で刊行を許可したのである。また、水戸藩も不許可回答の翌年である享保17年(1732年)に江戸下向中の坊城俊清に同書を託して朝廷への取次を要請した。これが嘉納されたのは実に69年後の文化7年(1810年)のことであった。ただし、光圀の南朝正統論は水戸学に継承されるが、細かいところでは議論があった。光圀に仕えていた栗山潜鋒は神器の所在に根拠を求め、同じく三宅観瀾は名分の存在に根拠を求めて対立している。これは三種の神器の所在で正統性を求めた場合、前述の後鳥羽天皇の即位の経緯の問題が発生する上、北朝でも光厳天皇は即位した時に本物の三種の神器を保有していた可能性が高いという問題が発生するためである(これは後醍醐天皇が隠岐島を脱出した際に出雲大社に対し、天叢雲剣の代替品として出雲大社の宝剣を借り受ける綸旨が現存していることからも指摘される[1])。

徳川光圀と並んで南朝正統論を唱えた人物として山崎闇斎が挙げられる。闇斎も南朝正統論に基づく史書編纂を計画していたが、執筆前に没した。彼の南朝正統論はその独自の尊王論とともに垂加神道を通じて多くの門人に伝えられ、闇斎の系統を引く学者(跡部光海・味池修居ら)の間で行われた。江戸時代後期の頼山陽も『日本外史』などを通じて尊王論を鼓舞したが、彼もまた南朝正統論を採っていた。特に死の間際に書いた絶筆ともされる「南北朝正閏論」は道義に基づいて南朝を正統とし、北朝の後小松天皇は南朝の禅譲によって即位したと主張している。史実ではない禅譲論を採っていることなど内容には問題があるものの、まさに命がけの一文は後世に少なからぬ影響を与えた。

他の代表的な南朝正統論者としては、『続神皇正統記』に対抗して、南朝を正統とする『改正続神皇正統記』を著した天野信景、『南朝編年記略』や『南朝皇胤紹運録』を著した津久井尚重、『南山巡狩録』を著した大草公弼などがいる。

更に幕末になると、成島司直の『南山史』や鹿持雅澄の『日本外史評』などの両統並立論も出現するようになる。その一方で朝廷では、前述のように永く現皇統につながる北朝を正統とする原則が守られ、祭祀もその方針で行われてきた。だが、『大日本史』の刊行問い合わせ問題以後、公家の間にもわずかながら南朝正統論者(山崎闇斎門人の正親町公通など)が現れるようになり、幕末の南朝正統論を軸とした尊王論の高まりに翻弄されることとなった。
南北朝正閏問題喜田貞吉 / 国史教科書で両朝を並立して記述したとして1911年に編修官を休職。皇居外苑にある楠木正成像

明治維新によって、北朝正統論を奉じてきた公家による朝廷から、南朝正統論の影響を受けてきた維新志士たちによる明治政府に皇室祭祀の主導権が移されると、旧来の皇室祭祀の在り方に対する批判が現れた。これに伴い、1869年明治2年)の鎌倉宮創建をはじめとする南朝関係者を祀る神社の創建・再興や贈位などが行われるようになった。また、1877年(明治10年)、当時の元老院が『本朝皇胤紹運録』に代わるものとして作成された『纂輯御系図』では北朝に代わって南朝の天皇が歴代に加えられ、続いて1883年(明治16年)に右大臣岩倉具視参議山縣有朋主導で編纂された『大政紀要』では、北朝の天皇は「天皇」号を用いず「帝」号を用いている。なお、1891年(明治24年)に皇統譜の書式を定めた際に、宮内大臣から北朝の天皇は後亀山天皇の後に記述することについて勅裁を仰ぎ、認められたとされている(喜田貞吉『還暦記念六十年之回顧』)。ただし、これらの決定過程については不明な部分が多い。また、こうした決定の効果は宮中内に限定されていた。

一方、歴史学界では、南北朝時代に関して『太平記』の記述を他の史書や日記などの資料と比較する実証的な研究がされ、これに基づいて1903年(明治36年)及び1909年(同42年)の小学校で使用されている国定教科書改訂においては南北両朝は並立していたものとして書かれていた。ところが、1910年(同43年)の教師用教科書改訂にあたって問題化し始め、大逆事件の秘密裁判での幸徳秋水の発言が、これに拍車をかけた。

当初、首相の桂太郎は「情意投合」の関係にあった立憲政友会原敬に「学者の説は自在に任せ置く考なり」と言ったといい(『原敬日記』)、政治的な介入は行わない意向だった。政治問題化の火付け役となったのは読売新聞[2]1911年(明治44年)1月19日付の社説で「もし両朝の対立をしも許さば、国家の既に分裂したること、灼然火を賭るよりも明かに、天下の失態之より大なる莫かるべし。何ぞ文部省側の主張の如く一時の変態として之を看過するを得んや」「日本帝国に於て真に人格の判定を為すの標準は知識徳行の優劣より先づ国民的情操、即ち大義名分の明否如何に在り。今日の多く個人主義の日に発達し、ニヒリストさへ輩出する時代に於ては特に緊要重大にして欠くべからず」と主張した。

さらに、政府と対立する姿勢を鮮明とする犬養毅率いる野党立憲国民党がこの問題を利用して第2次桂内閣の糾弾・打倒を図ったこと[2]で、南北朝のどちらの皇統が正統であるかを巡る帝国議会での政治論争にまで発展した(南北朝正閏問題)。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:41 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef