南北戦争
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365,000人以上 総死者[9]282,000人以上 負傷者[8]

94,000人以上 戦死・戦傷死[7]26,000人から31,000人が北軍の捕虜収容所で死去[8]

290,000人以上 総死者137,000人以上 負傷者
50,000人の市民が死亡[10]
総計: 705,000人から900,000人以上が死亡[11]
青が北部(アメリカ合衆国)自由諸州。水色が合衆国に留まった奴隷諸州。赤が南部(アメリカ連合国)奴隷諸州。白は準州[12]アメリカ連合国(CSA)加盟州の変遷(1860年12月 - 1870年7月)

南北戦争(なんぼくせんそう、英語: American Civil War またはThe Civil War)は、1861年4月12日から1865年4月9日にかけて[13]、北部のアメリカ合衆国と合衆国から分離した南部のアメリカ連合国の間で行われた内戦である。奴隷制存続を主張するミシシッピ州フロリダ州など南部11州が合衆国を脱退してアメリカ連合国を結成し、合衆国にとどまったその他の北部23州との間で戦争となった。この戦争では史上初めて近代的な機械技術が主戦力として投入された。

英語における「civil war」は単に「内戦」を意味する語だが、アメリカ合衆国では独立後に内戦があったのはこの時だけなので(ユタ戦争などの内乱と呼ぶべき物はいくつかある)、国内では通常これに定冠詞をつけ大文字にして「the Civil War」と表記する。アメリカ以外の国では自国の内戦と区別するため、国名を冠して「American Civil War」と表記する(南北戦争のネーミングを参照)。
背景詳細は「南北戦争の原因」を参照

当時、南部と北部との経済・社会・政治的な相違が拡大していた。南部では農業中心のプランテーション経済が盛んで特に綿花をヨーロッパに輸出していた。プランテーション経済は黒人奴隷の労働により支えられており、農園の所有者が実質的に南部を支配していた。南部の綿花栽培の急速な発展は、英国綿工業の発展に伴って増大した綿花需要に負うもので、英国を中心とした自由貿易圏に属することが南部の利益につながっていた。

一方、北部では米英戦争1812年 - 1814年)による英国工業製品の途絶で急速な工業化が進展しており、新たな流動的労働力を必要とし、奴隷制とは相容れなかった。また、欧州製の工業製品に対抗するため保護貿易が求められていた。その結果、奴隷制と貿易に対する認識を異にしていた北部の自由州(奴隷制を認めないという「自由」、奴隷州に対する概念的呼び方)と南部の奴隷州との間で対立が生じていた。

さらに、アメリカ合衆国が財政難に陥ったフランス(ナポレオン1世)からルイジアナ・テリトリーを購入(ルイジアナ買収)するとともに、メキシコから「独立」したテキサス共和国カリフォルニア共和国をアメリカ合衆国に加えた[注釈 1]ことで領土を拡張した結果、それまで上院で保たれていた自由州派(北部)と奴隷州派(南部)の均衡が崩れることとなった。

この時、カリフォルニア州を自由州として、ニューメキシコ準州ユタ準州については州に昇格する際に住民自らが奴隷州か自由州かを決定すること(人民主権)となった。この協定によって、南部は奴隷州が少数派となること、すなわち自由州側の方が上院議員数が多くなることに危機感を抱いた。なお、開戦の時点で北部の人口は約2200万、南部の人口は約900万だったとされる。南部の人口は、約400万の奴隷人口を含めた数字である。

こうした対立は徐々に先鋭化していき、1857年以降になると、アメリカはドレッド・スコット対サンフォード事件の判決、カンザス・ネブラスカ法ジョン・ブラウンによるハーパーズ・フェリー襲撃事件といった紛争が立て続けに起こり、南北の対立はもはや鎮静化が不可能な状態にまで達していた。北部では奴隷制に反対する新政党である共和党が急速に支持を拡大し、一方与党である民主党は北部と南部の対立が激化して、党が南北に割れる事態となっていた。
経過
開戦

1860年11月の大統領選挙では奴隷制が争点のひとつになり、奴隷制の拡大に反対していた共和党エイブラハム・リンカーンが当選した。この時点では、奴隷は個人の私有財産であることもあり、リンカーン自身は奴隷制廃止を宣言していなかったが、南部では不安が広がった[注釈 2]

同年12月にはサウスカロライナ州が早くも合衆国からの脱退を宣言。翌1861年2月までにミシシッピ州フロリダ州アラバマ州ジョージア州ルイジアナ州テキサス州も合衆国からの脱退を宣言した。2月4日にはこの7州が参加したアメリカ連合国を結成、首都をアラバマ州モンゴメリーにおき、ジェファーソン・デイヴィスが暫定大統領に指名された(同年11月に行われた選挙で正式に当選している)。

3月4日にリンカーンが大統領に就任すると、4月12日に南軍が合衆国のサムター要塞を砲撃して戦端が開かれた(サムター要塞の戦い)。リンカーンは合衆国に残ったすべての州にサムター要塞などの奪回を呼び掛け、軍事的な協力を要請した。しかしこれは連合国への軍事対決を意味し、このときいまだ合衆国に残っていた奴隷州を強く刺激した。こうして5月までにバージニア州アーカンソー州テネシー州ノースカロライナ州も連合国に合流した。バージニア州はアメリカ有数の有力州であり、このとき連合国の首都もモンゴメリーからバージニア州のリッチモンドへと移された。ただし奴隷州でもデラウェア州ケンタッキー州メリーランド州ミズーリ州、それにバージニア州の西部(後にバージニア州から「独立」してウェストバージニア州となる)は合衆国に残った。合衆国に残ったこれらの奴隷州への対応に、リンカーン大統領は非常に苦慮する事となる[注釈 3]

4月19日にはリンカーン大統領が南部海岸線の海上封鎖を宣言した。この封鎖は大西洋岸からメキシコ湾岸まで徐々に広がり、南部経済を締め付けていった。経済学者によっては、海上封鎖アメリカ海軍の勝利であり、戦争そのものに勝利する主要要因となったと分析している[14]
開戦時の情勢アラバマ号(英語版)はイギリスで建造され、私掠戦として南軍に提供され、北軍の貿易を妨害した。

南北戦争が勃発した時点では、北部も南部も戦争の準備は全くできていなかった。合衆国陸軍に所属していた将兵は1万6000人程度であり、武器も米墨戦争時の旧式のものを使用しているだけであった。また、合衆国海軍も将兵7600名と船舶42隻程度しか保有していなかった。しかし、それに対して南部は正規軍と呼べるような兵力は保有しておらず、海軍も存在しなかった。

大半の将兵は合衆国軍に残ったが、士官のうち313名が職を辞して南部連合軍に参加した。この中には後に南軍の将軍として有名になるロバート・E・リーストーンウォール・ジャクソンジョセフ・ジョンストン、それにP・G・T・ボーリガードなども加わっており、南北戦争を長引かせるひとつの要因となった[注釈 4]


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