南京事件_(代表的なトピック)
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

^ 1937年12月28日、稲葉四郎中将に交代。
^ 海軍
^ 秦郁彦が引用する日本の外交官日高信六郎の東京裁判での証言によれば12月17日時点で憲兵14人、数日中に補助憲兵40人が得られるはずという状況であった。秦郁彦は上海派遣軍と第十軍を合わせて、南京占領直後に城内で活動していた日本軍の正規の憲兵は30人を越えなかったと推定している[73]
^ これについて秦郁彦は「松井大将は元来が南京攻略論者だったし、上海派遣軍をひきいる立場から第十軍とのライバル意識を刺激されたのかもしれない」と評している[198]。また、笠原十九司は現地入りしていた武藤が南京進撃を成功させるために、第10軍(第6師団)の急進撃と戦果を称える一方で上海派遣軍(第16師団)の戦果をこき下ろすような電報を第16師団宛てに送り、第10軍と上海派遣軍の南京一番乗り競争を煽ったことを指摘している[199]
^ 東京裁判のときのジョン・マギーの証言は、虐殺の事実を伝えたが、多くは他の証言の伝聞であり、直接見たのは皆無に等しいとも述べた。ただし、そのマギーの証言に対して東京裁判の被告人の弁護人のブルックスが「尋問技術を駆使してもマギーの証言の一貫性と真実性を崩すことはできなかった。そのことはブルックス自身も法廷で実感し、またウェッブ裁判長にも次第に明白になっていった。(中略)ブルックスはあらためて「この証人は公平を務めていると信じます」と答え、ニ、三追加の質問をしたあと裁判長の勧告に従い反対尋問を終了したのだった。」[241]
^ 歴史学者楊大慶の発言「第三者の観察者としてこれらの人たちは、日本軍兵士、場合によっては中国軍兵士が加えた残虐行為や損害について説得力ある情報を提供した。しかし、この種類の証拠には限界もある。(中略)残留した欧米人二十四、五人?大部分が安全区内に残っていた?は、何十万という住民がいるより広い地域でその後実際に起こったことのほんの一部分を目撃したにすぎない」
^ 兵士30,000人、一般市民8,000人から12,000人の合計。これはルイス・S・C・スマイスによる民間慈善団体の紅卍字会および崇善堂の死体埋葬記録の調査で得られた数字を参考に調整したものである[266]
^ 秦は南京の中国軍の兵力10万、5万が戦死、4万が捕虜、3万が殺害(生存捕虜は1万)と推定。台湾公式戦史、上海派遣軍参謀長飯沼守少将日記、上海派遣軍郵便長佐々木元勝の12月15日日記の「俘虜はおよそ四万二千と私は聞かされている」に符合[270]

出典[脚注の使い方]^ 笠原 (1997)、214-215頁
^ a b c 世界戦争犯罪事典、78-87頁、「南京虐殺事件」の項目より
^ フォーゲル (2000)
^ 笠原 (1997)、214-232頁
^ a b c 現代アジア事典、866-867頁「南京事件」の項目より。
^ a b c 秦 (2007)、44頁
^ a b c 楊 (2000)、182頁
^ 笠原 (1997)、214頁

次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:347 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef