ベトナム統一後の1977年1月23日、グエン・フー・ト議長が機関紙を通じて「南ベトナム解放民族戦線は歴史的役割を輝かしく完遂した」と宣言。名実ともに組織が解消されることとなった[3]。
隣国のカンボジアでは親中のポル・ポト政権が誕生し、中国がベトナム南部への干渉を図ったことで、北ベトナム政府が、中国の影響力が強い南部独自の軍事力が干渉を受ける危険性を危惧して、軍事部門はベトナム人民軍(北ベトナム軍)に吸収し、組織は「ベトナム祖国戦線(英語版)」に合流する形で解体した。解放戦線兵士は北の指導部から疎んじられるようになり、解放戦線議長であったグエン・フー・トが名誉職である国会議長に僅かに就任した程度で、中には反発する元兵士も出た。 1960年12月の結成大会時は、暫定執行委員会が指導部の役割を果たし、委員長と総書記が置かれた[4]が、議長は空席とされた。 1962年2-3月、第1回全国大会が開催され、52人で構成する中央委員会と、最高機関としての幹部会が設立され、幹部会議長、幹部会副議長の職が置かれた。また、書記局が設立され、書記長職が置かれた[5][6]。 中央委員会の付属機関として、軍事委員会、公共保健衛生委員会、情報・文化・教育委員会、対外関係委員会、経済問題委員会、通信・電機委員会が設けられた[7]。 支配下とした地域において徴兵制を採っていたが、長年続く戦乱に若者の兵役に対する意欲は低く徴兵忌避が相次いだ。このため1965年からは徴兵対象を15歳以上の男女とし、新兵補充の強化を行った[9]。
構成
参加組織(英語版
南ベトナム急進社会党 - 1961年に結成された愛国的知識人の政党。
南ベトナム民主党(英語版) - 1944年に結成された民族ブルジョワジーとプチ・ブル政党。議長はフイン・タン・ファット。
大衆団体
解放労働者協会
解放農民協会
解放婦人連合会
解放学生・生徒連盟
解放青年同盟
人民革命青年団
解放作家芸術家協会
愛国民主ジャーナリスト協会
旧抵抗戦士協会
愛国軍人家族会
解放赤十字社
宗教団体
南ベトナム仏教会
愛国キリスト教徒協会
ホアハオ教
諸派
アジア・アフリカ連帯ベトナム委員会
民主法律家協会
タイグエン少数民族自治運動
その他
徴兵制
脚注^ 福田 2006, p. 216
^ 小倉 1992, p. 95
^ 解放戦線の役割終結を宣言『朝日新聞』1977年(昭和52年)1月27日朝刊、13版、7面
^ タン 1987, p. 91
^ a b 小沼 1988, pp. 234?235
^ タン 1987, p. 98
^ 小沼 1988, p. 234
^ 小沼 1988, p. 231
^ 「兵役忌避にあの手この手 政府側・ベトコン、徴兵に支障」『日本経済新聞』昭和40年7月14日夕刊2面
参考文献
チュオン・ニュー・タン(英語版
小沼新『ベトナム民族解放運動史』法律文化社、1988年。
小倉貞男『ドキュメント ヴェトナム戦争全史』岩波書店、1992年。
福田忠弘『ベトナム北緯17度線の断層―南北分断と南ベトナムにおける革命運動(1954?60)』成文堂、2006年。
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ホー・チ・ミン
左翼ナショナリズム
ベトコンラーメン - 南ベトナム解放民族戦線の勇敢なイメージにちなんで命名されたが、戦争の激化と日本国内の反戦ムード高揚を受けて「悲惨なイメージを抱かせる名称は食事に不適格である」と語源の変更を余儀なくされた。
ソンミ村虐殺事件 - 当初、アメリカ陸軍と南ベトナム解放民族戦線との戦闘とされた事件。
南民戦事件 - 南ベトナム解放民族戦線をモデルに設立された南朝鮮民族解放戦線準備委員会が摘発された事件。
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