南ネーデルラント
[Wikipedia|▼Menu]
アルベール1世1909-1934
第一次世界大戦1914-18
*ドイツ帝国による侵略(英語版)1914
*残虐行為(英語版)1914
*ドイツ帝国のベルギー占領(英語版)1914-18
ルアンダ=ウルンディ1922-62
レオポルド3世1934-51
第二次世界大戦1940-45
*ベルギーの戦い1940
*ナチス・ドイツのベルギー占領(英語版)1940-44
*ユダヤ人迫害(英語版)1941-44
*ベルギーの解放1944-45
国王問題1944-50
ボードゥアン1世1951-93
アルベール2世1993-2013
フィリップ2013-現代

ベルギー ポータル








南ネーデルラント(みなみネーデルラント、: Pays-Bas du Sud)は、スペイン1579年 - 1713年)、オーストリア1713年 - 1794年)及びフランス1794年 - 1815年)により支配された低地諸国の一部の地域を指す。時代によって、スペイン領ネーデルラント、オーストリア領ネーデルラントとも呼ばれる。この領域は、現在のベルギーのほとんど(リエージュ司教領を除く:ここは神聖ローマ帝国の一部であった)とルクセンブルク(現在のベルギーのリュクサンブール州ドイツラインラント=プファルツ州の一部も含む)と、1678年までは北フランスの一部を含んでいた。
広義のネーデルラントでの意味

ネーデルラントは非常に裕福であったため、負債を抱えていたハプスブルク家にとって重要な土地であった。しかし、他のハプスブルク領と異なり、ネーデルラントは商人階級の地位が高い土地であった。ブリュッセルを起点とする帝国郵便が貿易網として商人へ利益をもたらしていた。この郵便事業は、ランニングコストではなくイニシャルコストの解決を目的として、早くから裾野広く民間の参入を許した。スペインはハプスブルク家の戦費を徴収するために重税を課そうと試みたし、それは昔からあるネーデルラントの特権を守るための口実ともなっていた[1]。これは、宗教的に非寛容で頑固なカトリック教国のスペインの統治に対する抵抗とともに、1570年代のスペインに対するネーデルラントの反乱につながった。

ホラントゼーラントに率いられた北部7州は、1581年にネーデルラント連邦共和国として独立を得ることができたが、南ネーデルラントはパルマ公アレッサンドロ・ファルネーゼの活躍でスペインにより再占領された。南ネーデルラントは18世紀初めに行われたスペイン継承戦争によりオーストリア・ハプスブルク家に継承された。

オーストリアの法律では、古くからある特権に基づいた各州の防衛というものが、2世紀前のフェリペ2世の時と同様に、ヨーゼフ2世にとっても問題となった。これは、1789年から1790年頃にかけて大きな反乱を引き起こした。オーストリア領ネーデルラントは最終的にフランス革命戦争により失われ、フランスに併合された。

続くナポレオン戦争の後、1815年ウィーン会議において、オーストリアのネーデルラントの喪失は確定された。ウィーン体制下で、この地はオラニエ=ナッサウ家の下に北部ネーデルラントとともにネーデルラント連合王国へ統合された。南東のルクセンブルク大公国は、同時にドイツ連邦にも属することになったが、これはオラニエ=ナッサウ家がライン地方に持っていた所領を巡ってプロイセン王国との間で駆け引きが行われた結果であった。

1830年に、カトリックが優勢な南部はベルギー王国として独立した(北部はカルヴァン派が優勢であった)。1839年にルクセンブルクの北西の2/3の領域はベルギーに併合されてリュクサンブール州となった。ウィレム1世は残存地域からなるルクセンブルク大公国の自治を承認したが、その署名自体は1867年まで行われなかった。

オランダ(ネーデルラント)王は1890年までルクセンブルク大公であった。しかし、ウィレム3世の死後、ウィルヘルミナ女王がオランダの王位を継承した際に、サリカ法典に従うルクセンブルクは、女王による統治とその権利を認めなかった。そのため、オランダとルクセンブルクの同君連合は終わりを告げた。
スペイン領南ネーデルラント1547年のミュールベルクの戦いの後のハプスブルク家の支配領域(ケンブリッジ・モダン・ヒストリー・アトラス(1912年)に記載)。ハプスブルク家の領土は緑の影をつけてある。1556年より、ネーデルラントはこの領域に入った。ただし、東フランスと南イタリアサルデーニャシチリアはスペイン・ハプスブルク家により維持されていた。

広義のスペイン領ネーデルラント(オランダ語:Spaanse Nederlanden、スペイン語:Paises Bajos espanoles)は、1482年以降ハプスブルク家の統治下にあった17州を指す。1556年以降はスペイン・ハプスブルク家の統治下に置かれた。北部諸州は八十年戦争(1568年 - 1648年)を経てハプスブルク家の統治から分離し、1581年の誓約(英:Oath of Abjuration)の後、ネーデルランド連邦共和国として独立した。南部諸州はハプスブルク家の統治下に残り、狭義のスペイン領(南)ネーデルラントとなった。

スペイン領南ネーデルラントは、以下の領土より構成されていた。

フランドル伯

アルトワ伯領

トゥルネーの町

カンブレー

(凡その領域として、現在のフランスのノール県と、パ=ド=カレー県の北半分の領域)


ルクセンブルク公国

リンブルフ公国

エノー伯

ナミュール伯領

メヘレン

ブラバント公国

ゲルデルン公国の上部1/4(Bovenkwartier) - 現在のオランダのリンブルフ州フェンロールールモント 近傍

首都はブラバントのブリュッセルであった。

17世紀の初め、ブリュッセルには豪華な宮殿が存在し、それは、フェリペ3世の姉イザベラ大公妃と彼女の夫である皇帝マクシミリアン2世の子アルブレヒト大公の統治下にあった。大公の宮殿より有名となった画家の中でよく知られている者としては、ピーテル・パウル・ルーベンスがいた。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:35 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef