南スーダン
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2011年7月13日には国連安保理決議1999により国際連合総会に対し国際連合への加盟が勧告され、翌日の総会にて加盟が承認され193番目の加盟国となった[9]。さらに、AU(アフリカ連合)の54番目の加盟国となった。またイギリス連邦に加盟を申請中である[10]東アフリカ共同体にもケニアとルワンダの協力で[11]2016年に加盟している。

2014年、非政府組織平和基金会が発表した「世界でもっとも脆弱な国家ランキング」で、南スーダンは首位となった[12]。2019年のランキングでも3位になっている。独立とともに南スーダン(赤色)を承認した国(青色)

国際通貨基金(IMF)が公表したデータによると、2018年南スーダンは「世界で最も貧しい国」のトップに選ばれた[13]

首都ジュバは立地が南部すぎることや、再開発が難しいことを理由に、レイク州南東部のラムシールへの移転計画がある。
国名

正式名称は、英語でRepublic of South Sudan。アラビア語では???? ???????(ラテン文字転写 : jan?b al-S?d?n; ジャヌュブ・アッ=スーダーン)。

日本語の表記は、南スーダン共和国。通称、南スーダン。漢字表記は、南蘇丹。

「スーダーン」はアラビア語で「黒い人」を意味する言葉を原義とし、元来は北アフリカアラブ人たちからみて南に住む黒人の居住地域、すなわち西アフリカから東アフリカに至るまでのサハラ砂漠以南の広い地域を指す地域名称である。

南スーダン独立後、それまで宗主国であったスーダン共和国との違いを明確化させる為、二国間関係を表す際に「南北スーダン」とする表現はメディアなどでよく見られる。.mw-parser-output .ambox{border:1px solid #a2a9b1;border-left:10px solid #36c;background-color:#fbfbfb;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .ambox+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+link+.ambox{margin-top:-1px}html body.mediawiki .mw-parser-output .ambox.mbox-small-left{margin:4px 1em 4px 0;overflow:hidden;width:238px;border-collapse:collapse;font-size:88%;line-height:1.25em}.mw-parser-output .ambox-speedy{border-left:10px solid #b32424;background-color:#fee7e6}.mw-parser-output .ambox-delete{border-left:10px solid #b32424}.mw-parser-output .ambox-content{border-left:10px solid #f28500}.mw-parser-output .ambox-style{border-left:10px solid #fc3}.mw-parser-output .ambox-move{border-left:10px solid #9932cc}.mw-parser-output .ambox-protection{border-left:10px solid #a2a9b1}.mw-parser-output .ambox .mbox-text{border:none;padding:0.25em 0.5em;width:100%;font-size:90%}.mw-parser-output .ambox .mbox-image{border:none;padding:2px 0 2px 0.5em;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-imageright{border:none;padding:2px 0.5em 2px 0;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-empty-cell{border:none;padding:0;width:1px}.mw-parser-output .ambox .mbox-image-div{width:52px}html.client-js body.skin-minerva .mw-parser-output .mbox-text-span{margin-left:23px!important}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .ambox{margin:0 10%}}

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歴史詳細は「スーダンの歴史(英語版)」および「南スーダンの歴史」を参照

かつて南部の黒人たちは、アラブ系やダルフールおよびバハル・アル・ガザールなどの奴隷商人によって奴隷売買されていた。1821年にスーダンの北部はエジプトが、南部は1877年イギリスが占領した。1898年にイギリスとエジプトによる共同統治(英埃領スーダン)が始まった。南部を支配していたイギリスはその南部のウガンダとの統合を望んだが、1947年のジュバ会議(英語版)での合意により南北スーダンの統合が決められた。
建国前
第一次スーダン内戦

1955年に南部で反乱が起き、第一次スーダン内戦(1955年 - 1972年)が起きた。1956年にスーダン共和国として北部と南部が統一して独立したが、北部の政治的・経済的支配に南部の住民は不満を抱いていた。1972年アディス・アベバ合意により南部に制限つき自治権が与えられ、将来の南部の分離独立を問う住民投票も認められ、南北の内戦は一時終結した。

1974年シェブロン油田を発見し、その多くが南部に分布していた。
第二次スーダン内戦スーダン人民解放軍を率いたジョン・ガラン

民族イスラム戦線の圧力も受け、1983年モハメド・アン=ヌメイリ政権は南部の自治権や将来の分離独立の住民投票を取り止め、イスラム法シャリーアを導入してイスラム勢力の取り込みを図り、また石油資源の独占を図り、南部の3つの州をそれぞれ分割した。そのためキリスト教徒も多い南部などで反乱が起こり、南部最大の民族であるディンカ人の出身のジョン・ガラン大佐を中心としたスーダン人民解放軍/運動(SPLA/M)が北部の政権に対して反乱を起こし、第二次スーダン内戦(1983年 - 2005年)が起きた。政権が交替しても内戦が収まることはなく、1989年オマル・アル=バシールが政権を握ると、イスラムを支持母体とする政権に反対する政治勢力を抑圧し、SPLAをはじめとする南部の反政府組織に対する戦争を拡大していった。初代大統領に選出されたサルバ・キール・マヤルディ

この内戦により、約250万人の南部住人が殺され、数百万人が居住地を追われた。中でも、突然の襲撃で村から逃げ出したスーダンのロストボーイズと呼ばれる孤児となった約2万人の子どもたちが、SPLAの保護下、ケニアやエチオピア難民キャンプまでサバイバルの旅をしたことは、本や映画にもなりアメリカではよく知られている。

南部での内戦は激化していったが、2002年にケニアで南北の和平交渉が成立し、2005年1月9日には南北包括和平合意(英語版)(CPA)が署名された。南部は行政上の自治を6年間与えられ、そして北部で適用されているイスラム法シャリーアも南部で適用しないこととなった。さらに2011年1月には、スーダンの一部として北部と統一するのか分離独立するのかを決める住民投票も南部で行うこととなった。
LRA掃討作戦

ウガンダとコンゴ民主共和国軍による神の抵抗軍掃討作戦ガランバ攻勢(英語版)(2008年12月14日 - 2009年3月15日)に南スーダン自治政府が協力する部隊を派遣した。
住民投票詳細は「2011年南部スーダン独立住民投票」を参照

2010年1月20日、スーダンのバシール大統領は、南部スーダンの大統領サルバ・キール・マヤルディも出席したヤンビオ(英語版)で開催の南北の内戦終結5周年を祝う式典にて、「住民が選択(分離独立を)した場合にはスーダン政府は南部の独立を承認する」と発言した。

南部の住民は独立志向が強く、2011年1月の住民投票では予想されたとおり分離独立を選択した。しかし、南部の石油の利権や、同時にディンカ人のンゴック氏族の先住地アビエイの帰属も問われることとなった。
独立

2011年7月9日に、アメリカ合衆国からの後押しもあり、スーダンから分離独立した。新政府は、スーダン人民解放軍/運動(SPLA/M)が中心となっている。
南北スーダン国境紛争(2011年)

2011年11月3日北スーダン青ナイル州クルムク(英語版)で、「スーダン人民解放運動・北」(SPLM・N)[注釈 1] の拠点がスーダン政府軍に攻撃された。同州での武力紛争は同年9月から続いており、約2万8,700人の難民がエチオピアに脱出した(国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)による)。SPLM・Nは11月2日、北スーダン南コルドファン州タロディ(英語版)周辺で、政府軍と激しい戦闘が続いていることを明らかにした。


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