南オセチア
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南オセチアの独立を認めていないジョージアでは、ツヒンヴァリ地域(グルジア語: ????????? ??????? Tskhinvalis regioni)または旧南オセチア自治州(?????? ??????? ?????? ??????????? ????)と呼ばれている。

なお、ジョージアにはツヒンヴァリ地域の法的政府として南オセチア暫定政府(英語版)が名目上存在するが、あくまで暫定的な措置であるため、行政区画で「南オセチア/ツヒンヴァリ地域」に当たるものは存在しない。

一方、事実上独立している南オセチア共和国では2017年に行われた国民投票(英語版)によって正式国名にアラニヤ国が追加され、南オセチア共和国・アラニヤ国となった[12]。このアラニヤという名は、この地域の主要民族であるオセット人の祖とされるイラン系アラン人が建てたアラニヤ国(英語版)に由来する。

なお南オセチア共和国とアラニヤ国は双方とも同等とされているため、どちらを使用してもよいとされている[13]。2015年12月時点の改名案では南オセチア・アラニヤ共和国であった[14]
正式名称

オセット語: Республикa Хуссар Ирыстон ? Паддзахад Алани(Respublika Xussar Iryston - Paddzaxad Allonston)

ロシア語: Республика Южная Осетия ? Государство Алания(Respublika Yuzhnaya Osetiya - Gosudarstvo Alaniya)

英語: Republic of South Ossetia ? the State of Alania

地理ジョージアの行政区画図に記した「南オセチア自治州/共和国」の位置。北辺はロシア連邦の北オセチア共和国と接する

カフカース山脈の南斜面に位置する。最高点はハラツァ山(海抜3,941m)。面積は3,900平方km(埼玉県とほぼ同じ)で、海抜1,000m以上の土地が国土の89.3%を占める。カフカース山脈により北風から守られているため、北カフカース地域よりも温暖である。平均気温は、1月で+4.5℃、7月で+20.3℃である。年間平均降水量は、598mm。
住民

民族構成

オセット人  89.1%
グルジア人  8.9%
ロシア人  1.0%
その他  1.0%
カフカースの民族分布図

住民の多くはオセット人であり、その外、ロシア人カルトヴェリ人(狭義の「グルジア人」)、ウクライナ人アルメニア人などもいる。人口は、1989年のデータで9万9千人だった。2012年の人口推計によるとオセット人が9割を占める。一方、2007年には25.0%を占めていたカルトヴェリ人は、多くが難民として流出し、8.9%に減少した。
言語

主要言語は、オセット語。現在、ロシア北オセチア共和国に倣い、キリル文字を使用している。北オセチアと統一してのロシア連邦加盟を目標としているのでロシア語も公用語である。
歴史
ソ連時代 南オセチア自治州
Ху?ссар Ирыстоны автономон облaст
??????? ?????? ??????????? ????

1922年 - 1990年

1922年時点のカフカース地方

公用語オセット語
グルジア語(1989年より)
首都ツヒンヴァリ


元首等
xxxx年 - xxxx年不明

面積
1983年39,000km²

人口
1926年[15]87,375人
1939年106,118人
1959年96,807人
1979年97,988人
1989年98,527人

変遷
設置1922年4月20日
廃止1990年12月11日
独立宣言1991年11月28日

通貨ソビエト連邦ルーブル
北オセチアと南オセチア

ロシア革命後、オセチアは南北に二分され、南オセチアはグルジアに編入され、1922年4月20日、南オセチア自治州(South Ossetian Autonomous Oblast)が誕生した。この時、北側は1924年にロシア・ソビエト連邦社会主義共和国の北オセチア自治州(その後、北オセチア自治州は1936年に北オセチア自治ソビエト社会主義共和国となり、1990年にロシア連邦北オセチア共和国となる。)

自治州とされたが、ソ連時代を通じてカルトヴェリ人優先の政策が遂行された。例えば、1939年には、これまでラテン文字を使用していたオセット人にカルトリ文字(グルジア文字)が強制され、カルトリ語(グルジア語)の教育が必須とされた。様々な抑圧策の結果、南オセチアの人口は、戦前の10万7千人から1989年の9万9千人にまで減少した。
独立闘争

1980年代末から、グルジアSSRではカルトヴェリ人の民族主義が勃興し始め、カルトヴェリ人以外の民族は危機感をつのらせた。1989年、南オセチアでの公用語をカルトリ語とすることが決定されると、南オセチア自治州人民代議員会議は、南オセチア自治州を自治共和国にすることを要請した。しかし、グルジア最高会議はこの決定を違憲として却下した。

1989年11月23日、グルジアの政治家ズヴィアド・ガムサフルディアは、自分の支持者(3万?6万人)を引き連れ、南オセチアの中心都市ツヒンヴァリで行進を行った。数百人の武装兵が随行し、負傷者400人、死者6人を出した。

1990年4月、グルジアSSR最高会議は、旧ソビエト連邦共産党執政時代に採択された全法律の無効化を決定し、このことは、事実上、南オセチアの自治権の無効化を意味した。これに対して、南オセチア自治州人民代議員会議は、主権宣言、ソ連時代の憲法・法律の有効、共和国への昇格などを決定した。11月、グルジアSSRが国号を「グルジア共和国」に変更し、ガムサフルディアがグルジア最高会議議長に選出されると、対立は更にエスカレートした。

この年は南オセチア最高会議の任期満了の年だったが、ジョージアは選挙日を公示しなかった。12月9日、南オセチアは独自に選挙を実施したが、12月10日、ジョージア最高会議は、南オセチア自治州の廃止を全会一致で決定した。12月11日、ツヒンヴァリ市とドザウ地区に戒厳令が施行された。

1991年1月5日、ツヒンヴァリに警官隊とガムサフルディアの親衛隊が投入された。オセット人は、自警団を結成してこれに対抗し、ツヒンヴァリからグルジア人を追い出すことに成功した。武装闘争は、ロシア・ジョージア・オセチア混成の平和維持軍が導入された1992年7月14日まで継続した。

1991年1月29日、南オセチア最高会議議長トレズ・クルムベゴフが交渉のためジョージアに向かったが、その場で逮捕された。2月1日にはエネルギー供給が遮断され、4月29日には大規模な地震も発生し、住民の生活条件は極度に悪化した。事態打開のため、南オセチア代議員会議は、共和国から自治州への復帰を決議した。しかしながら、カルトヴェリ人武装勢力の攻撃は止まず、6月8日までに70の村落が焼かれた。9月1日、南オセチア代議員会議は、自治州への復帰を取り消し、共和国を復活させた。

1992年1月19日、南オセチア共和国の独立に関する住民投票が行われ、92%以上がこれに賛成した。2月、ツヒンヴァリ周辺にグルジアの砲兵と装甲車両が配備され、砲撃を開始した。

1992年3月8日、エドゥアルド・シェワルナゼがグルジアの指導者となったが、南オセチアに対する政策は変わらなかった。

1992年5月29日、南オセチア共和国最高会議は、国家独立法を採択した。
紛争調停と独立2007年6月時点での「南オセチア自治州/共和国」詳細図

1992年6月24日、ロシア、ジョージア、南北オセチア4者による紛争調停の原則に関する協定が署名され、7月14日、平和維持軍が導入された。

1993年11月2日、最高会議は憲法を採択し、この日は南オセチアの独立記念日とされている。1995年5月5日には、国歌を制定。1996年11月10日、南オセチア最初の大統領選挙が行われた。

2006年11月12日、大統領選挙が行われ、95%の得票でエドゥアルド・ココイトゥイが再選し、同時に行われた調査で、99%の住民が独立に投票した[16]

2008年2月17日コソボ独立宣言を受け、ロシアなど独立国家共同体 (CIS)、国際連合に対し、近くジョージアからの独立承認を求める方針を明らかにしたと報道されている。
ジョージア軍による武力攻撃詳細は「南オセチア紛争 (2008年)」を参照

2008年8月8日、ジョージア軍が侵攻し、ミヘイル・サアカシュヴィリ大統領は同日の記者会見で、同地域の大半の制圧と州都・ツヒンヴァリの包囲を宣言、予備役を緊急招集した。また、南オセチア展開における過程で、平和維持軍として駐屯していたロシア軍基地に対するジョージア軍の攻撃も発生。


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