南アフリカ共和国
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また、事実上パスポートなしで移民を受け入れる政策をとってからは、特に隣国ジンバブエからの移民が急増し、国内に住む黒人の失業率が増加する結果となり、大規模な移民排斥運動も起こり始めている[14]。さらに、黒人への優遇政策によりこれまで要職に就いていた白人が押し出される格好になり、白人の失業率が上昇することになった[15]

同じ英国領だったインドからの移住者の子孫であるインド系南アフリカ人と黒人の間にも相互不信があり、前大統領ジェイコブ・ズマへの有罪判決を発端に2021年7月に発生した暴動では、ダーバン北郊でインド系が多く暮らすフェニックス地区が黒人暴徒に襲撃され、自警団との銃撃戦が発生した[6]
政治詳細は「南アフリカ共和国の政治(英語版)」を参照

アフリカでも数少ない複数政党制が機能する民主主義国家の一つである。議会は両院制で、いずれも任期5年の全国州評議会(90名、上院)国民議会(400名、下院)で構成される。元首たる南アフリカ共和国の大統領は、国民議会の議決により選出される。

2018年2月15日、国民議会(下院)はアフリカ民族会議(ANC)のシリル・ラマポーザを大統領に選出した。

2019年南アフリカ総選挙では、アフリカ民族会議が過半数の議席を獲得した[16]

複都制を採用しており、立法府はケープタウン市都市圏、行政府はツワネ都市圏(プレトリア)、司法府はブルームフォンテーンに置かれている。「南アフリカ共和国の憲法(英語版)」も参照
立法詳細は「南アフリカ共和国の議会」を参照議会議事堂(ケープタウン)

アパルトヘイト撤廃後に6度の総選挙が実施され、反アパルトヘイト闘争を主導したアフリカ民族会議(ANC)が2004年総選挙の時は、7割近い得票で圧勝していたが、次回以降の選挙では経済停滞と高失業率を背景に得票率が低下し[17]2019年総選挙では57.50%と、6割を切っている。
アフリカーナーリベラル派に支持基盤を持つ民主同盟(DA)、アフリカ民族会議(ANC)の青年同盟のリーダーであったジュリアス・マレマがANCを離脱して2013年7月に立ち上げた経済的解放の闘士(EFF)、クワズールー・ナタール州を地盤とするインカタ自由党(IFP)が続くが、全議席の約6割をANCが占めている。しかし、憲法改正の際、国会議員の3分の2以上の賛成が必要となるため、憲法改正させるためにアフリカ民族会議が他党との協力をしなければならなくなる可能性が高くなる[17]。また得票率低下が今後進んでいった場合、ANCは少数与党として政権運営をするか、他党と連立しなければならない状況になる可能性も高くなる。「南アフリカ共和国の政党」も参照

南アフリカ議会の会派構成政党名全国州評議会
(上院)国民議会
(下院)
常任議員特別議員
アフリカ民族会議(ANC)2925230
民主同盟(DA)13784
経済的解放の闘士(EFF)9244
インカタ自由党(IFP)1114
自由戦線プラス(FF Plus)2110
アフリカ・キリスト教民主党(ACDP)004
統一民主運動(UDM)002
アフリカ変革運動002
グッド002
アフリカ独立会議(AIC)002
国民会議(COPE)002
国民自由党(IFP)002
パンアフリカニスト会議(PAC)001
アル・ジャマア(ALJAMA)001
計5436400

行政詳細は「南アフリカ共和国政府(英語版)」を参照行政府庁舎のユニオンハウス(プレトリア

行政の中心地はプレトリア(ツワネ市都市圏)である。元首にして行政府の長である大統領は議会から選出され、内閣を組織する(大統領制議院内閣制)。
司法詳細は「南アフリカ共和国の司法(英語版)」を参照

1994年に設置された憲法裁判所のほか、最高裁判所を筆頭とする三審制司法制度である。司法府はブルームフォンテーンに置かれている。
国際関係詳細は「南アフリカ共和国の国際関係(英語版)」を参照南アフリカ共和国が外交使節を派遣している諸国の一覧図

冷戦中の南アフリカ共和国は人種主義に基づくアパルトヘイト体制維持を掲げたため、ブラックアフリカをはじめとする国際社会から孤立し、わずかにイスラエル中華民国台湾)などが友好国として存在するのみだった。しかし、南部アフリカにおける反共の砦と自らを規定していたため、実際は軍事面において西側諸国との友好関係も保っていた。このような反共政策を背景にしてアンゴラ内戦1974年 - 2002年)に直接介入したり、モザンビーク内戦1977年 - 1992年)でのモザンビーク民族抵抗運動(RENAMO)支援を通して周辺の社会主義黒人政権に不安定工作を発動したが、世界的な反アパルトヘイトキャンペーンと東側諸国の勢力低下により強硬政策は頓挫した。そのため、アンゴラ、モザンビーク両国に干渉することをやめ、1990年にはアンゴラからのキューバ軍の撤退と引き換えに占領していたナミビアの独立を認めた。

フレデリック・ウィレム・デクラーク大統領がアパルトヘイト体制を葬った後、1994年にネルソン・マンデラを首班としたANC政権が成立。南アフリカ共和国はアフリカ統一機構(OAU)に加盟し、国際社会に合流した。
日本との関係詳細は「日本と南アフリカの関係」を参照

在留日本人数 - 1,505人(2017年10月時点)[12]

在日南アフリカ人数 - 942人(2018年12月時点)[12]

在留邦人数は1997年10月には3,517名いたが、2017年では42.8%と半数以下となっている。ヨハネスブルクには日本人学校もある。また、ごく少数だが、永住者日系人も存在する。

ケープ植民地入植者にはオランダ人ヤン・ファン・リーベックによって、長崎の出島から連れてこられたハポンと呼ばれる日本人家族が含まれていたという説もある[18]

公式記録として残る南アフリカに初めて入国した日本人は、慶応2年(1865年)1月にケープタウンに立ち寄った江戸幕府ロシア帝国派遣留学生ら6名で、移住者としては、1898年(明治31年)に入植した古谷駒平らが最初期にあたる(在南アフリカ日本人参照)。
国家安全保障詳細は「南アフリカ国防軍」を参照

南アフリカ国防軍 (South African National Defence Force; SANDF)は陸軍・海軍空軍の三軍と南アフリカ総合医療部隊から構成される。

かつて冷戦時代に存在した南アフリカ防衛軍 (South African Defence Force; SADF)は、アパルトヘイト体制維持のために国内のアフリカ民族会議(ANC)や占領していたナミビア南西アフリカ人民機構(SWAPO))のゲリラとの非正規戦、およびアンゴラの社会主義政権とアンゴラに介入したキューバ軍との戦いに従事していた。


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