公用語アフリカーンス語
英語
バントゥー諸語9言語[注 2]
首都プレトリア(行政)
ケープタウン(立法)
ブルームフォンテーン(司法)
最大の都市ヨハネスブルグ(2011年)[2][注 3]
政府
大統領シリル・ラマポーザ
副大統領ポール・マシャティル
全国州評議会議長タンディ・モディセ
国民議会議長バレカ・ムベテ
最高裁判所長官レイ・ゾンド
面積
総計122万(日本の約3.2倍)[3]km2(24位)
水面積率極僅か
人口
総計(2022年)57,516,665人(26位)[4]
人口密度47.1人/km2
GDP(自国通貨表示)
合計(2020年)5兆5210億7500万[5]ランド
GDP(MER)
合計(2020年)3353億4400万[5]ドル(41位)
1人あたり5,624.500[5]ドル
GDP(PPP)
合計(2020年)7923億3300万[5]ドル(30位)
1人あたり13,289.266[5]ドル
建国
自治領南アフリカ連邦成立1910年5月31日
ウェストミンスター憲章1931年12月11日
連邦地位法(英語版)施行
(独立国)1934年8月22日
イギリス連邦脱退
共和制移行1961年5月31日
マンデラ政権成立
イギリス連邦再加盟1994年5月10日
通貨ランド(ZAR)
時間帯UTC+2 (DST:なし)
ISO 3166-1ZA / ZAF
ccTLD.za
国際電話番号27
^ 1997年までは神よ、アフリカに祝福をおよび南アフリカの呼び声。
^ バントゥー諸語9言語とは、ズールー語、コサ語、スワジ語、南ンデベレ語、ソト語、北ソト語、ツォンガ語、ツワナ語、ヴェンダ語をさす。
^ 2000年以降の自治体再編により、ヨハネスブルグが、それまで最大都市であったダーバンの人口を超えた。
南アフリカ共和国(みなみアフリカきょうわこく、英: Republic of South Africa, アフリカーンス語: Republiek van Suid-Afrika)、通称南アフリカは、アフリカ大陸最南部に位置する共和制国家。
北東でエスワティニ、モザンビーク、北でジンバブエ、ボツワナ、西でナミビアと国境を接し、内陸国レソトを四方から囲んでいる。北を除く三方は海で、アフリカ大陸最南端アガラス岬を境に東がインド洋、西が大西洋で、南インド洋のプリンス・エドワード諸島を領有する。
イギリス連邦加盟国の一つ。首都機能をプレトリア(行政府)、ケープタウン(立法府)、ブルームフォンテーン(司法府)に分散させているが、各国の大使館はプレトリアに置いていることから国を代表する首都はプレトリアと認識されている。
黒人、白人、インド系などが暮らす多人種・多民族国家である。かつては白人が有色人種を差別・支配するアパルトヘイト政策がとられていた[6]。 南アフリカ共和国はかつて有色人種に対する人種差別で知られていた。それはアパルトヘイトと呼ばれる1994年まで法制化されていた政策によるものであった[7][8]。ダイヤモンドの世界的産地であり[9]、民主化後の経済発展も注目されている。 同国はアフリカ経済の牽引国であり、アフリカ唯一のG20参加国である。IMF推計による2022年のGDPは4,115億ドルであり[10]、アフリカではエジプトと並びナイジェリアに次ぐ経済規模である。アフリカで最も工業化が進んでいる国として新興工業国と見なされている。 経済成長が期待されるBRICS(ブラジル(Brazil)、ロシア(Russia)、インド(India)、中国(China)、南アフリカ(South Africa)の1つ。また、BRICSからロシアを除いたIBSAC(India, Brazil, South Africa, China)という用語が、G7でイギリスによって提唱されたこともある[注釈 1]。 一方で後天性免疫不全症候群 (AIDS)の蔓延、教育水準の低い非白人の極端な貧困、平時にもかかわらず1日の他殺による死者数が戦争中レベルで治安が毎年悪化しているなど、懸念材料も多い[11]。 11の公用語を採用しており[12]、公用語によって国名の表記も異なる。 独立後、イギリス連邦を脱退する1961年までは「南アフリカ連邦」と呼ばれていた。 紀元前数千年ごろから、狩猟民族のサン人(ブッシュマン)と同系統で牧畜民族のコイコイ人(ホッテントット:「吸着音でわけのわからない言葉を話す者」の意)が居住するようになった。また、300年 - 900年代に現在のカメルーンに相当する赤道付近に居住していたバントゥー系諸民族が南下し、現在の南アフリカに定住した。 ヨーロッパで大航海時代が始まった15世紀末の1488年に、ポルトガル人のバルトロメウ・ディアスがアフリカ大陸最南端に近い喜望峰に到達した。 1652年にオランダ東インド会社のヤン・ファン・リーベックがこの地に到来し、喜望峰を中継基地とした。喜望峰は航海上の重要な拠点として注目されたうえ、気候も比較的ヨーロッパに似ていたためである。以後、オランダ人移民は増加し、ケープ植民地が成立した。この植民地にて形成されたボーア人(Boer:アフリカーンス語読みでブール人とも呼ばれるが、本項では以下ボーア人で統一)の勢力拡大とともに、コイ人やサン人などの先住アフリカ人との争いも起きた。一方で先住アフリカ人とボーア人、またオランダ領東インドから奴隷として連れてきたインドネシア系諸民族とボーア人の混血も進み、のちにカラードと呼ばれることになる民族集団が生まれた。 18世紀末には金やダイヤモンドの鉱脈を狙ってイギリス人が到来した。ボーア人とイギリス人は対立し、フランス革命戦争中の1795年にイギリスのウィリアム・ベレスフォード
概説
国名
アフリカーンス語: Republiek van Suid-Afrika
英語: Republic of South Africa
ズールー語: IRiphabliki yaseNingizimu Afrika
南ンデベレ語: IRiphabliki yeSewula Afrika
北ソト語: Rephaboliki ya Afrika-Borwa
ソト語: Rephaboliki ya Afrika Borwa
スワジ語: IRiphabhulikhi yeNingizimu Afrika
ツォンガ語: Riphabliki ra Afrika Dzonga
ツワナ語: Rephaboliki ya Aforika Borwa
ヴェンダ語: Riphabu?iki ya Afurika Tshipembe
コサ語: IRiphabliki yaseMzantsi Afrika
歴史詳細は「南アフリカ共和国の歴史」および「南アフリカ共和国年表」を参照ヤン・ファン・リーベックのケープ上陸
ナポレオン戦争終結後、19世紀初頭にケープ植民地はオランダからイギリスへ正式に譲渡され、イギリス人が多数移住した。イギリスの植民地になり英語が公用語となり、同国の司法制度が持ち込まれるなどイギリスの影響が強まった。イギリス人の増加とともに英語を解さないボーア人は二等国民として差別され、自らをアフリカーナーと呼ぶようになった(以下ボーア人をアフリカーナーとする)。1834年12月1日にイギリスが統治するケープ植民地内で奴隷労働が廃止されると、奴隷制に頼っていたアフリカーナーの農業主はこの奴隷制度廃止措置に反発し、1830年代から1840年代にかけてイギリスの統治が及ばない北東部の奥地へ大移動を開始した(グレート・トレック)。アフリカーナーはバントゥー系のズールー人やンデベレ人、スワジ人、ツワナ人など先住アフリカ人諸民族と戦いながら内陸部へと進み、ナタール共和国(1839年建国)や、トランスヴァール共和国(1852年建国)、オレンジ自由国(1854年建国)などのボーア諸共和国を建国した。しかし、セシル・ローズに代表されるように南アフリカ全土を領有することを求めたイギリスとの対立から2度にわたるボーア戦争に発展し、第一次ボーア戦争ではアフリカーナーの両国がイギリスを退けたが、第二次ボーア戦争(1899年 - 1902年)では敗北し、それらもすべてイギリスの手に落ちた。