南アフリカ共和国
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また、世界的に脱植民地化時代に突入していたにもかかわらず、このように露骨な人種主義政策をとり続けたために、域内のアフリカの新興独立国から国際的に孤立したため[注釈 3]、同様に域内で孤立していた白人国家ローデシアや、アフリカにおける植民地帝国の維持を続けるポルトガル、そして強固に反共政策をとっていた中華民国台湾)や、汎アラブ主義の波に対抗していたイスラエルとの結びつきを深めた[13]ロベン島にある刑務所。刑務所は反アパルトヘイト運動により反逆罪として逮捕された政治犯の強制収容所として使われ、ネルソン・マンデラウォルター・シスル、ロバート・ソブクウェ(英語版)らが収監された。ロベン島は1999年、ユネスコ世界文化遺産に登録された。

1966年にフルウールトが暗殺されたあと、バルタザール・フォルスターが次代の首相に就任した。フォルスター政権成立に前後して同年8月より占領していたナミビアでも独立を目指す南西アフリカ人民機構(SWAPO)によるナミビア独立戦争1966年 - 1990年)が始まった。

1974年植民地戦争によって疲弊したポルトガルでカーネーション革命が勃発し、エスタード・ノーヴォ体制が崩壊して左派政権が誕生して植民地の放棄を打ち出すと、近隣の旧ポルトガル植民地だったアンゴラモザンビーク社会主義国として新たなスタートを切り、両国は南アフリカとローデシアの白人支配に対するブラックアフリカ諸国の最前線であるフロントライン諸国(英語版)となった。南アフリカとローデシアは強行に国内を引き締める一方、両国に対して直接・間接の軍事介入を行い、両国を苦しめた。さらに国内でも、1976年にソウェト蜂起が勃発し、この黒人蜂起に対するフォルスター首相の対応は国際的な批判を浴びてさらに国内では政治スキャンダルで追い込まれて辞することになり、軍事介入を主導してきた強硬派で国防相だったP・W・ボータが後継の首相に就任した。

1980年、ローデシアはローデシア紛争の末に白人政権が崩壊して新たに黒人国家ジンバブエが成立し、反共のための戦いから脱落した。一方、南アフリカ防衛軍による直接介入が行われていたアンゴラでも、キューバやブラックアフリカ諸国に支援されたアンゴラ政府軍の抵抗が続き、戦争は泥沼の様相を呈していた。国内でも1980年代にはボータは首相職を廃止して南アフリカ共和国の大統領に就任して強権を振るい、反体制運動も激しくなり、さらにそれまでの反共的姿勢から南アフリカを優遇していた西側諸国からも国際的に経済制裁を受け、南アフリカ内外で反アパルトヘイト運動が高まった。1988年には第二次世界大戦後のアフリカで最も大規模な戦いの一つだったクイト・クアナヴァレの戦い(英語版)でアンゴラ=キューバ連合軍に敗北し、この戦いをきっかけに南アフリカはキューバ軍のアンゴラからの撤退と引き換えに占領していたナミビアの独立を認めた。軍事介入の失敗により、アパルトヘイト体制は風前の灯火となっていた。

このような情勢の悪化から辞任したボータ大統領の後任であるデ・クラーク大統領は冷戦の終結した1990年代に入ると、アパルトヘイト関連法の廃止、人種主義法の全廃を決定するとの英断を下した。また、同時に1970年代から1980年代にかけて6発の核兵器を密かに製造・配備をしていたが、核拡散防止条約加盟前に全て破棄していたことを1993年に発表した。

1994年4月に同国史上初の全人種参加の総選挙が実施され、アフリカ民族会議(ANC)が勝利し、ネルソン・マンデラ議長が南アフリカ共和国の大統領に就任した。副大統領にANCのターボ・ムベキと国民党党首のデ・クラーク元大統領が就任した。アパルトヘイト廃止に伴いイギリス連邦と国連に復帰し、アフリカ統一機構(OAU)に加盟した。マンデラ政権成立後、新しい憲法を作るための制憲議会が始まり、1996年には新憲法が採択されたが国民党は政権から離脱した。

南アフリカ国内と南西アフリカ(ナミビア)にはかつて、黒人を「外国人」として扱うため、国際社会からは国家の承認を受けていないバントゥースタン(ホームランド)と呼ばれる「国家」や自治区が南アフリカ政府により樹立されたが、ナミビア独立やアパルトヘイト崩壊の過程で全て消滅した。

アパルトヘイトが撤廃された21世紀になっても依然として人種間失業率格差が解消されないでいた理由は、アパルトヘイトが教育水準格差をも生み出していたことが最も大きな要因と考えられる。アパルトヘイト撤廃によって即日雇用平等の権利を得たとしても、当時の労働人口の中心となる青年層はすでに教育水準の差が確定してしまっており、アパルトヘイト時代に教育を受ける機会を得られなかった国民は、炭坑労働者など、雇用が不安定な業種にしか職を求めることができなかった。さらに、鉱山は商品市況によって炭鉱労働者の雇用または解雇を頻繁に行うこともあり、黒人の失業率は白人のそれと比べて非常に高い統計結果が出てしまうのである。しかし、撤廃後12年以上が経過し、教育を受ける世代が一巡したことで、白人・黒人間の失業率格差は縮小しつつある。また政府は、単純労働者からIT技術者の育成など技術労働者へ教育プログラムなどを用意し、国民のスキルアップに努めている。今後、失業率の問題は、人種失業率格差から、数十あると言われる各部族間格差を縮小させるような政策が期待されているが、犯罪率も高く、多くの過激派組織も活動している点は否定できない。また、事実上パスポートなしで移民を受け入れる政策をとってからは、特に隣国ジンバブエからの移民が急増し、国内に住む黒人の失業率が増加する結果となり、大規模な移民排斥運動も起こり始めている[14]。さらに、黒人への優遇政策によりこれまで要職に就いていた白人が押し出される格好になり、白人の失業率が上昇することになった[15]

同じ英国領だったインドからの移住者の子孫であるインド系南アフリカ人と黒人の間にも相互不信があり、前大統領ジェイコブ・ズマへの有罪判決を発端に2021年7月に発生した暴動では、ダーバン北郊でインド系が多く暮らすフェニックス地区が黒人暴徒に襲撃され、自警団との銃撃戦が発生した[6]
政治詳細は「南アフリカ共和国の政治(英語版)」を参照

アフリカでも数少ない複数政党制が機能する民主主義国家の一つである。議会は両院制で、いずれも任期5年の全国州評議会(90名、上院)国民議会(400名、下院)で構成される。元首たる南アフリカ共和国の大統領は、国民議会の議決により選出される。

2018年2月15日、国民議会(下院)はアフリカ民族会議(ANC)のシリル・ラマポーザを大統領に選出した。

2019年南アフリカ総選挙では、アフリカ民族会議が過半数の議席を獲得した[16]

複都制を採用しており、立法府はケープタウン市都市圏、行政府はツワネ都市圏(プレトリア)、司法府はブルームフォンテーンに置かれている。「南アフリカ共和国の憲法(英語版)」も参照
立法詳細は「南アフリカ共和国の議会」を参照議会議事堂(ケープタウン)

アパルトヘイト撤廃後に6度の総選挙が実施され、反アパルトヘイト闘争を主導したアフリカ民族会議(ANC)が2004年総選挙の時は、7割近い得票で圧勝していたが、次回以降の選挙では経済停滞と高失業率を背景に得票率が低下し[17]2019年総選挙では57.50%と、6割を切っている。


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