南アフリカ共和国
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^ 2000年以降の自治体再編により、ヨハネスブルグが、それまで最大都市であったダーバンの人口を超えた。

南アフリカ共和国(みなみアフリカきょうわこく、: Republic of South Africa, アフリカーンス語: Republiek van Suid-Afrika)、通称南アフリカは、アフリカ大陸最南部に位置する共和制国家

北東でエスワティニモザンビーク、北でジンバブエボツワナ、西でナミビアと国境を接し、内陸国レソトを四方から囲んでいる。北を除く三方は海で、アフリカ大陸最南端アガラス岬を境に東がインド洋、西が大西洋で、南インド洋のプリンス・エドワード諸島を領有する。

イギリス連邦加盟国の一つ。首都機能をプレトリア(行政府)、ケープタウン(立法府)、ブルームフォンテーン(司法府)に分散させているが、各国の大使館はプレトリアに置いていることから国を代表する首都はプレトリアと認識されている。

黒人白人インド系などが暮らす多人種・多民族国家である。かつては白人が有色人種を差別・支配するアパルトヘイト政策がとられていた[6]
概説

南アフリカ共和国はかつて有色人種に対する人種差別で知られていた。それはアパルトヘイトと呼ばれる1994年まで法制化されていた政策によるものであった[7][8]ダイヤモンドの世界的産地であり[9]、民主化後の経済発展も注目されている。

同国はアフリカ経済の牽引国であり、アフリカ唯一のG20参加国である。IMF推計による2022年GDPは4,115億ドルであり[10]、アフリカではエジプトと並びナイジェリアに次ぐ経済規模である。アフリカで最も工業化が進んでいる国として新興工業国と見なされている。

経済成長が期待されるBRICSブラジル(Brazil)、ロシア(Russia)、インド(India)、中国(China)、南アフリカ(South Africa)の1つ。また、BRICSからロシアを除いたIBSAC(India, Brazil, South Africa, China)という用語が、G7イギリスによって提唱されたこともある[注釈 1]

一方で後天性免疫不全症候群 (AIDS)の蔓延、教育水準の低い非白人の極端な貧困、平時にもかかわらず1日の他殺による死者数が戦争中レベルで治安が毎年悪化しているなど、懸念材料も多い[11]
国名

11の公用語を採用しており[12]、公用語によって国名の表記も異なる。

アフリカーンス語: Republiek van Suid-Afrika

英語: Republic of South Africa

ズールー語: IRiphabliki yaseNingizimu Afrika

南ンデベレ語: IRiphabliki yeSewula Afrika

北ソト語: Rephaboliki ya Afrika-Borwa

ソト語: Rephaboliki ya Afrika Borwa

スワジ語: IRiphabhulikhi yeNingizimu Afrika

ツォンガ語: Riphabliki ra Afrika Dzonga

ツワナ語: Rephaboliki ya Aforika Borwa

ヴェンダ語: Riphabu?iki ya Afurika Tshipembe

コサ語: IRiphabliki yaseMzantsi Afrika

独立後、イギリス連邦を脱退する1961年までは「南アフリカ連邦」と呼ばれていた。
歴史詳細は「南アフリカ共和国の歴史」および「南アフリカ共和国年表」を参照ヤン・ファン・リーベックのケープ上陸

紀元前数千年ごろから、狩猟民族サン人(ブッシュマン)と同系統で牧畜民族のコイコイ人(ホッテントット:「吸着音でわけのわからない言葉を話す者」の意)が居住するようになった。また、300年 - 900年代に現在のカメルーンに相当する赤道付近に居住していたバントゥー系諸民族が南下し、現在の南アフリカに定住した。

ヨーロッパ大航海時代が始まった15世紀末の1488年に、ポルトガル人バルトロメウ・ディアスがアフリカ大陸最南端に近い喜望峰に到達した。

1652年オランダ東インド会社ヤン・ファン・リーベックがこの地に到来し、喜望峰を中継基地とした。喜望峰は航海上の重要な拠点として注目されたうえ、気候も比較的ヨーロッパに似ていたためである。以後、オランダ人移民は増加し、ケープ植民地が成立した。この植民地にて形成されたボーア人(Boer:アフリカーンス語読みでブール人とも呼ばれるが、本項では以下ボーア人で統一)の勢力拡大とともに、コイ人やサン人などの先住アフリカ人との争いも起きた。一方で先住アフリカ人とボーア人、またオランダ領東インドから奴隷として連れてきたインドネシア系諸民族とボーア人の混血も進み、のちにカラードと呼ばれることになる民族集団が生まれた。

18世紀末には金やダイヤモンドの鉱脈を狙ってイギリス人が到来した。ボーア人とイギリス人は対立し、フランス革命戦争中の1795年イギリスのウィリアム・ベレスフォード(英語版)将軍がケープタウンを占領した。第二次ボーア戦争1899年 - 1902年)に際してのイギリスの強制収容所に送られたボーア人の女性と子ども。イギリスによって建設されたこの強制収容所は、20世紀の世界各国で建設された強制収容所の先駆となった。

ナポレオン戦争終結後、19世紀初頭にケープ植民地はオランダからイギリスへ正式に譲渡され、イギリス人が多数移住した。イギリスの植民地になり英語が公用語となり、同国の司法制度が持ち込まれるなどイギリスの影響が強まった。イギリス人の増加とともに英語を解さないボーア人は二等国民として差別され、自らをアフリカーナーと呼ぶようになった(以下ボーア人をアフリカーナーとする)。1834年12月1日にイギリスが統治するケープ植民地内で奴隷労働が廃止されると、奴隷制に頼っていたアフリカーナーの農業主はこの奴隷制度廃止措置に反発し、1830年代から1840年代にかけてイギリスの統治が及ばない北東部の奥地へ大移動を開始した(グレート・トレック)。アフリカーナーはバントゥー系のズールー人やンデベレ人、スワジ人ツワナ人など先住アフリカ人諸民族と戦いながら内陸部へと進み、ナタール共和国(1839年建国)や、トランスヴァール共和国(1852年建国)、オレンジ自由国(1854年建国)などのボーア諸共和国を建国した。しかし、セシル・ローズに代表されるように南アフリカ全土を領有することを求めたイギリスとの対立から2度にわたるボーア戦争に発展し、第一次ボーア戦争ではアフリカーナーの両国がイギリスを退けたが、第二次ボーア戦争1899年 - 1902年)では敗北し、それらもすべてイギリスの手に落ちた。アフリカーナーのみならず、独立していた先住アフリカ人諸民族のアフリカーナーとイギリス人双方に対する抵抗も続いたが、1879年ズールー戦争のように抵抗した民族は全て敗れ、南アフリカはほぼ完全にイギリスに支配された。1994年まで使用された国旗。アパルトヘイトの象徴として悪名高い。

1910年5月31日に、ケープ州ナタール州トランスヴァール州オレンジ自由州の4州からなる南アフリカ連邦として統合され、イギリス帝国内のドミニオン(自治領)としてアフリカーナーの自治を確立した。翌1911年には、鉱山における白人黒人間の職種区分と人数比を全国的規模で統一することを目的とした、白人労働者保護のための最初の人種主義法である「鉱山・労働法」が制定された。それからも人種差別法の制定は続いた。

第一次世界大戦ではアフリカ各地も戦場になった(アフリカ戦線)。南アフリカから出撃した英軍はドイツ領南西アフリカを占領し、南西アフリカとしてナミビア独立まで支配した。

1931年にはウェストミンスター憲章が採択され、南アフリカ連邦は外交権をはじめイギリスと同格の主権を獲得。1934年にはイギリスの議会で南アフリカ連邦地位法が可決され、正式に主権国家として規定された。1939年に第二次世界大戦が勃発すると、南アフリカ連邦は連合国の一員として参戦した。アパルトヘイト時代の人種隔離についての規定が表記されたビーチの看板

1948年にアフリカーナーの農民や都市の貧しい白人を基盤とする国民党が政権を握り、ダニエル・フランソワ・マランが首相に就任すると、国民党はアパルトヘイト政策(人種隔離政策)を本格的に推進していった。国際連合の抗議やアフリカ人民評議会などの団体の抵抗にもかかわらず、国民党はアパルトヘイト政策をやめることはなかった[注釈 2]。国際関係としては、反共主義を押し出し、自由主義陣営として朝鮮戦争に軍を派遣した。

1958年にマランに続いてヘンドリック・フルウールトが首相に就任すると、南アフリカは1960年代から1980年代にかけて強固なアパルトヘイト政策を敷いた。他方、国内では人種平等を求める黒人系のアフリカ民族会議(ANC)による民族解放運動が進み、ゲリラ戦が行われた。1960年シャープビル虐殺事件をきっかけに、1961年にはイギリスから人種主義政策に対する非難を受けたため、イギリス連邦から脱退し、立憲君主制に代えて共和制を採用して新たに国名を南アフリカ共和国と定めた。一方で、日本人は白人でないにもかかわらず白人であるかのように扱われる名誉白人として認められ、日本は南アフリカ政府や南アフリカ企業と深いつながりを持つことになった。また、世界的に脱植民地化時代に突入していたにもかかわらず、このように露骨な人種主義政策をとり続けたために、域内のアフリカの新興独立国から国際的に孤立したため[注釈 3]、同様に域内で孤立していた白人国家ローデシアや、アフリカにおける植民地帝国の維持を続けるポルトガル、そして強固に反共政策をとっていた中華民国台湾)や、汎アラブ主義の波に対抗していたイスラエルとの結びつきを深めた[13]ロベン島にある刑務所。刑務所は反アパルトヘイト運動により反逆罪として逮捕された政治犯の強制収容所として使われ、ネルソン・マンデラウォルター・シスル、ロバート・ソブクウェ(英語版)らが収監された。ロベン島は1999年、ユネスコ世界文化遺産に登録された。


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