南アフリカ共和国
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^ 1997年までは神よ、アフリカに祝福をおよび南アフリカの呼び声
^ バントゥー諸語9言語とは、ズールー語コサ語スワジ語南ンデベレ語ソト語北ソト語ツォンガ語ツワナ語ヴェンダ語をさす。
^ 2000年以降の自治体再編により、ヨハネスブルグが、それまで最大都市であったダーバンの人口を超えた。

南アフリカ共和国(みなみアフリカきょうわこく、: Republic of South Africa, アフリカーンス語: Republiek van Suid-Afrika)、通称南アフリカは、アフリカ大陸最南部に位置する共和制国家

北東でエスワティニモザンビーク、北でジンバブエボツワナ、西でナミビアと国境を接し、内陸国レソトを四方から囲んでいる。北を除く三方は海で、アフリカ大陸最南端アガラス岬を境に東がインド洋、西が大西洋で、南インド洋のプリンス・エドワード諸島を領有する。

イギリス連邦加盟国の一つ。首都機能をプレトリア(行政府)、ケープタウン(立法府)、ブルームフォンテーン(司法府)に分散させているが、各国の大使館はプレトリアに置いていることから国を代表する首都はプレトリアと認識されている。

黒人白人インド系などが暮らす多人種・多民族国家である。かつては白人が有色人種を差別・支配するアパルトヘイト政策がとられていた[6]
概説

南アフリカ共和国はかつて有色人種に対する人種差別で知られていた。それはアパルトヘイトと呼ばれる1994年まで法制化されていた政策によるものであった[7][8]ダイヤモンドの世界的産地であり[9]、民主化後の経済発展も注目されている。

同国はアフリカ経済の牽引国であり、アフリカ唯一のG20参加国である。IMF推計による2022年GDPは4,115億ドルであり[10]、アフリカではエジプトと並びナイジェリアに次ぐ経済規模である。アフリカで最も工業化が進んでいる国として新興工業国と見なされている。

経済成長が期待されるBRICSブラジル(Brazil)、ロシア(Russia)、インド(India)、中国(China)、南アフリカ(South Africa)の1つ。また、BRICSからロシアを除いたIBSAC(India, Brazil, South Africa, China)という用語が、G7イギリスによって提唱されたこともある[注釈 1]

一方で後天性免疫不全症候群 (AIDS)の蔓延、教育水準の低い非白人の極端な貧困、平時にもかかわらず1日の他殺による死者数が戦争中レベルで治安が毎年悪化しているなど、懸念材料も多い[11]
国名

11の公用語を採用しており[12]、公用語によって国名の表記も異なる。

アフリカーンス語: Republiek van Suid-Afrika

英語: Republic of South Africa

ズールー語: IRiphabliki yaseNingizimu Afrika

南ンデベレ語: IRiphabliki yeSewula Afrika

北ソト語: Rephaboliki ya Afrika-Borwa

ソト語: Rephaboliki ya Afrika Borwa

スワジ語: IRiphabhulikhi yeNingizimu Afrika

ツォンガ語: Riphabliki ra Afrika Dzonga

ツワナ語: Rephaboliki ya Aforika Borwa

ヴェンダ語: Riphabu?iki ya Afurika Tshipembe

コサ語: IRiphabliki yaseMzantsi Afrika

独立後、イギリス連邦を脱退する1961年までは「南アフリカ連邦」と呼ばれていた。
歴史詳細は「南アフリカ共和国の歴史」および「南アフリカ共和国年表」を参照ヤン・ファン・リーベックのケープ上陸

紀元前数千年ごろから、狩猟民族サン人(ブッシュマン)と同系統で牧畜民族のコイコイ人(ホッテントット:「吸着音でわけのわからない言葉を話す者」の意)が居住するようになった。また、300年 - 900年代に現在のカメルーンに相当する赤道付近に居住していたバントゥー系諸民族が南下し、現在の南アフリカに定住した。

ヨーロッパ大航海時代が始まった15世紀末の1488年に、ポルトガル人バルトロメウ・ディアスがアフリカ大陸最南端に近い喜望峰に到達した。

1652年オランダ東インド会社ヤン・ファン・リーベックがこの地に到来し、喜望峰を中継基地とした。喜望峰は航海上の重要な拠点として注目されたうえ、気候も比較的ヨーロッパに似ていたためである。以後、オランダ人移民は増加し、ケープ植民地が成立した。この植民地にて形成されたボーア人(Boer:アフリカーンス語読みでブール人とも呼ばれるが、本項では以下ボーア人で統一)の勢力拡大とともに、コイ人やサン人などの先住アフリカ人との争いも起きた。一方で先住アフリカ人とボーア人、またオランダ領東インドから奴隷として連れてきたインドネシア系諸民族とボーア人の混血も進み、のちにカラードと呼ばれることになる民族集団が生まれた。

18世紀末には金やダイヤモンドの鉱脈を狙ってイギリス人が到来した。ボーア人とイギリス人は対立し、フランス革命戦争中の1795年イギリスのウィリアム・ベレスフォード(英語版)将軍がケープタウンを占領した。第二次ボーア戦争1899年 - 1902年)に際してのイギリスの強制収容所に送られたボーア人の女性と子ども。イギリスによって建設されたこの強制収容所は、20世紀の世界各国で建設された強制収容所の先駆となった。

ナポレオン戦争終結後、19世紀初頭にケープ植民地はオランダからイギリスへ正式に譲渡され、イギリス人が多数移住した。


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