協商国のロシア内戦への介入
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フョードル・ラスコルニコフ

ドミトリー・ジュロバ(英語版)

セミョーン・ブジョーンヌイ

ハイク・ベジシカン(英語版)

ドミトリー・ナディオジニー(英語版)

ドミトリー・パルスキー(英語版)

アレクサンドル・クラスノシチョーコフ

部隊
白軍
チェコ軍団
イギリス軍
アメリカ軍
フランス軍
大日本帝国軍
ギリシャ軍
エストニア国防軍
セルビア軍
イタリア軍
ルーマニア軍
北洋軍 ボリシェヴィキ
赤軍
戦力


50,000?70,000人

15,600人

30,000人 [6]

11,000人

11,300人

70,000人以上

59,150人[7][8][9][10]

4,700人以上

2,500人

2,300人 [11]

2,000人

150人
不明
被害者数


: 死者4,112人 [12]

: 死者938人以上[13][14][15]

: 死者424人[16]

:死者225人
行方不明者173人
負傷者657人[17]

死傷者3,000人以上 負傷者2万人以上[18]
不明

協商国のロシア内戦への介入(きょうしょうこくのロシアないせんへのかいにゅう、ロシア語: Иностранная военная интервенция в России)では、1918年から1920年まで(日本のみ1922年まで)行われた協商国第一次世界大戦における連合国)によるロシア内戦への一連の干渉戦争について述べる。 当初、連合国はシベリア鉄道やシベリアの諸都市を占領していたチェコスロバキア軍団ロシアの港で、軍需品や武器の供給を確保することを支援するために派兵を行っていた。この目的は次第にロシア白軍を支援するというものに変わっていった。しかし、1920年に白軍が崩壊すると、協商国は自軍を撤退させた。ただし、日本は1922年まで軍事干渉を続けた[19]。また、これらの干渉にはドイツなどの中央同盟国によるロシアの資源の利用を防ぐ目的や、1917年ロシア十月革命によってロシア領内で捕えられた連合国軍を支援する目的を含むものもあった[20]

連合国軍による干渉戦争には、アルハンゲリスクに上陸した北ロシア出兵(英語版)や、ウラジオストクに上陸したシベリア出兵、イギリス軍主導により行われたバルト海戦線(英語版)や南コーカサス戦線(英語版)、フランス主導の南ウクライナ・クリミア遠征(英語版)が含まれる。

ロシアに干渉した連合軍は連合国間の目的の不一致や第一次世界大戦から続く戦争による疲労によって撤退することとなった。1920年9月のチェコスロバキア軍団の撤退完了に伴い、協商国のほとんどの国は同年までにロシアから軍を撤退させた。ただし、日本は1922年までシベリア出兵を続け、1925年まで北サハリンを占領した(サガレン州派遣軍[21]

欧米の歴史家はこれらの干渉戦争を第一次世界大戦に続く小規模な軍事作戦として描いている。一方、ソビエトやロシアの歴史家にはボルシェヴィキによる世界革命の抑圧やロシアを分割し衰退を目的とした連合国による試みであると解釈する者もいる[22]
背景
ロシア革命詳細は「ロシア革命」を参照

1917年初頭のロシア帝国は政争に明け暮れ、第一次世界大戦や時のロシア皇帝ニコライ2世への国民の支持は低下しており、同年3月(旧暦2月の末)2月革命が起こった。この革命により、政治的な圧力を受けたニコライ2世は3月15日(旧暦3月2日)に退位し、第一次世界大戦の戦況にも大きな影響を与えた。ほぼ同時にゲオルギー・リヴォフらよるロシア臨時政府が成立した。ロシア臨時政府は、東部戦線におけるドイツ帝国との継戦を主張した[21]

第一次世界大戦の開戦以来、連合国は、アルハンゲリスクムルマンスクウラジオストクの港からロシアに物資を供給していた。

ロシア国民の間では第一次世界大戦に対する厭戦感情が高まり、政治的・社会的不安が高まるにつれてウラジミール・レーニン率いるマルクス主義の反戦政党ボリシェヴィキが支持を伸ばした。戦場では、多くの兵士が反逆を起こしたり、ロシア帝国陸軍から脱走した。7月に第一次世界大戦におけるロシア最後の攻勢であるケレンスキー攻勢が行われるがドイツ帝国やオーストリア・ハンガリー帝国の反撃によってロシア軍は多くの戦力を失い、東部戦線の崩壊を招いた。戦意喪失したロシア軍は反乱の危機に瀕し、多くの兵士が戦線から離脱した。ケレンスキーは、7月19日にアレクセイ・ブルシーロフに代わって、ラーヴル・コルニーロフを陸軍の最高司令官に任命した。

コルニーロフは8月27日(旧暦9月10日)に軍事的独裁政権樹立を目指したクーデターを試みる(コルニーロフ事件(英語版))。このクーデターにはイギリスのオリバー・ロッカー=ランプソン(英語版)が指揮する装甲車隊がコルニーロフ側で加わっていた[23][24][25]。クーデターは失敗に終わったが、この時コルニーロフはペトログラードのイギリス人駐在武官のアルフレッド・ノックス(英語版)准将の支援を受けていた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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