千駄木
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昭和8年(1933年)に須藤家が公園用地として東京市に寄付。)[20]

文京区立森?外記念館(記念館が建つ場所は、森?外の旧居「観潮楼」跡地。観潮楼正門の門柱跡や森?外ゆかりの大イチョウが今でも残る。カフェを併設。)[21]

旧安田楠雄邸庭園(大正12年[1923年]、安田財閥の創始者安田善次郎の娘婿善四郎が購入。公益財団法人日本ナショナルトラストに寄贈され、修復管理し公開。)[22]

日本医科大学付属病院1910年、「日本医学校付属病院」として開設。1977年1月、日本初の救急救命センター設置認可<厚生省認可第一号>。)

倉庫をリノベーションしたカフェ(千駄木三丁目・よみせ通り)[23]

地価

住宅地地価は、令和6年(2024年)の公示地価によれば、文京区千駄木3-10-27(標準地番号:文京-17)の地点で117万0000円/m2、令和5年(2023年)の基準地価によれば、千駄木1-11-8(基準地番号:文京-4)の地点で106万0000円/m2となっている[24][25]

また、商業地の地価は、令和6年(2024年)の公示地価によれば、文京区千駄木3-40-2(標準地番号:文京5-9)の地点で157万0000円/m2、令和5年(2023年)の基準地価によれば、千駄木3-40-2(基準地番号:文京5-7)の地点で149万0000円/m2となっている[24][25]
歴史駒込林町(現:千駄木5丁目)にあった搾乳場「楽牛園」[26]。明治時代歌川広重名所江戸百景」詳細は「駒込 (東京都)」を参照

古くは駒込村の一部で、名前の由来は、雑木林で薪などを伐採、その数が千駄にも及んだからという説や、室町時代の武将・太田道灌センダン(栴檀)の木を植えた地であり、この栴檀木が転訛したとの説があるが、柳田國男は『母の手毬歌』の中で、雨乞いの儀式「千駄焚き」(センダキと発音する地域が多い)と関連付けている。

江戸時代の古地図の下駒込村内に「上野東漸院持ち駒込千駄木御林」・「上野寒松院持ち駒込千駄木御林」の記載があり、ここから雑木を切り出して寛永寺の護摩の木や煮炊きに用いていた。明治以降は雑木林を切り拓いて、駒込林町と称された文化人が多い閑静な住宅地へと変貌した[27]

旗本小笠原順三郎邸など、かつて坂上に徳川家康に仕えた武家の屋敷があり、明治期以降は多くの文化人、政財界の著名人が居を構えるお屋敷街となる。1745年町奉行支配となった町名に駒込千駄木町・駒込千駄木坂下町・駒込千駄木下町の名がある。千駄木坂下町の小笠原邸跡には、明治初期に旧豊後府内藩主だった大給家(元:松平家)が屋敷を移したことから、「大給坂」と名付けられた[28]。その後、大給家の屋敷はのちの内閣総理大臣大平正芳の邸宅になり、現在は邸宅跡地の一部が児童遊園として近隣に開放され、歴史ある立派な大イチョウがかつての面影を今に伝えている[29]

文京区立須藤公園は、江戸時代の加賀藩の支藩の大聖寺藩の屋敷跡であり、その後、政治家の品川弥二郎の邸宅、実業家の須藤吉左衛門の邸宅を経て、須藤家から東京市に寄付されたものである[20]。千駄木ふれあいの杜も、太田道灌の子孫である太田摂津守の下屋敷跡であり、かつての屋敷内の緑が残されている貴重な緑地であるが、2001年に所有者の好意により文京区との間の市民緑地契約に基づき一般公開され、現在は所有者から寄附を受けた文京区が都市公園として設置している[30]

江戸時代に景勝地として知られていた団子坂は、世界的に著名な浮世絵師である歌川広重により、連作「名所江戸百景」の中で、「千駄木団子坂花屋敷」として描かれている[31]。団子坂で幕末から明治期にかけて毎年秋に行われた「菊人形」は、多くの見物客を集めた一大観光イベントであった[32][33]

日本政策金融公庫駒込高風荘のある場所は、高位の女官明治天皇側室でもあった花松典侍が、明治天皇の死後に住んでいた邸宅跡地である[34]

1923年に発生した関東大震災では、千駄木を含む、いわゆる谷根千の町はほとんど家は倒れず町も焼けなかった。谷根千の町が焼けなかったのは不忍池の水と上野公園の緑、谷中霊園の緑があったことも理由として考えられている[35]


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