住宅地の地価は、2023年(令和5年)1月1日の公示地価によれば、千駄ヶ谷3-4-24の地点で145万円/m2となっている[6]。
歴史千駄ヶ谷2丁目(左側)と神宮前2丁目(右側)を隔てる道路。画像千駄ヶ谷トンネル奥の中央赤い建物は旧日本青年館詳細は「渋谷区の町名#千駄ヶ谷村の成立過程」および「新宿区の町名#千駄ヶ谷地区の変遷」を参照「千駄ヶ谷町」および「原宿#歴史」も参照
かつてこの地に存在した東京府豊多摩郡千駄ヶ谷町は、1932年(昭和7年)に東京市に編入され、渋谷町、代々幡町と合併して渋谷区を形成した。維新後、徳川宗家が住し天璋院も居住した。
現在の新宿御苑内を水源とした渋谷川上流地区に位置し、たくさんの萱が生えていたこと、それを一日に「千駄(駄は馬に積む荷物の重さの単位)の萱」を積むことから千駄ヶ谷となった。元は豊多摩郡千駄ヶ谷町大字千駄ヶ谷。昭和7年に千駄ヶ谷一丁目から五丁目まで起立。昭和43年千駄ヶ谷二丁目の南半分を神宮前二丁目に分離、原宿三丁目の北半分を千駄ヶ谷三丁目に編入。また千駄ヶ谷大谷戸町を千駄ヶ谷六丁目とし、さらに、代々木山谷町の一部および代々木外輪町の一部を千駄ヶ谷六丁目に編入。
千駄ヶ谷一丁目の鳩森八幡神社前交差点から西に伸びて同・二丁目の北参道交差点に続く「千駄ヶ谷大通り」は、古くから千駄ヶ谷と代々木を結ぶ主要道で、戦前には『豊栄亭』という芝居小屋もあるなど大いに賑わい、また1932年(昭和7年)に千駄ヶ谷町が渋谷区となるまでは「大通」という小字があった[7]。
千駄ヶ谷は1960年代前半までは東京都内でも有数の温泉マーク「連れ込み宿」(別名として連れ込み旅館、現在のラブホテルに該当)街であった[8]。当時、鳩森小学校付近にも連れ込み宿が林立し、それを一掃しようという運動が近隣住民や小学校のPTAを中心に起こった[9]。その結果、千駄ヶ谷は1957年(昭和32年)、隣接する原宿地区と共に文教地区としての指定を受け[9]、現在までには本地区において風俗営業法に準拠する同様の施設はみられなくなった。 実施後実施年月日実施前(各町名ともその一部) 地区の北寄りをJR中央線が東西に横断しており、千駄ケ谷駅が所在する。 地区の西寄りを明治通り、東端近くを外苑東通りが縦断している。明治通りの地下には東京メトロ副都心線が通り(2008年6月14日に開業)、北参道駅が当町域内に所在する。 2023年(令和5年)1月1日現在(東京都発表)の世帯数と人口は以下の通りである[1]。
住居表示実施前後の町名の変遷
千駄ヶ谷一丁目1968年1月1日千駄ヶ谷1・3、千駄ヶ谷大谷戸町の全域、千駄ヶ谷2・4・5、原宿3、代々木外輪町の各一部
千駄ヶ谷二丁目千駄ヶ谷1・3、千駄ヶ谷大谷戸町の全域、千駄ヶ谷2・4・5、原宿3、代々木外輪町の各一部
千駄ヶ谷三丁目千駄ヶ谷1・3、千駄ヶ谷大谷戸町の全域、千駄ヶ谷2・4・5、原宿3、代々木外輪町の各一部
千駄ヶ谷四丁目千駄ヶ谷1・3、千駄ヶ谷大谷戸町の全域、千駄ヶ谷2・4・5、原宿3、代々木外輪町の各一部
千駄ヶ谷五丁目千駄ヶ谷1・3、千駄ヶ谷大谷戸町の全域、千駄ヶ谷2・4・5、原宿3、代々木外輪町の各一部
千駄ヶ谷六丁目千駄ヶ谷1・3、千駄ヶ谷大谷戸町の全域、千駄ヶ谷2・4・5、原宿3、代々木外輪町の各一部
交通
世帯数と人口
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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