千葉真一
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

1979年には芸能生活20周年記念作品である『戦国自衛隊』で[114]、主演と日本映画初のアクション監督を兼務し[17]、配給収入で13.5億円の大ヒットを記録[115]。その演出が評価され、1980年にブルーリボン賞のスタッフ賞を受賞した。1981年の主演映画『冒険者カミカゼ -ADVENTURER KAMIKAZE-』は自ら企画し[116]、『忍者武芸帖 百地三太夫』(1980年)と『吼えろ鉄拳』(1981年)で出演とアクション監督を兼務。1989年の『将軍家光の乱心 激突』でも出演とアクション監督を兼ね、同作は第39回ベルリン国際映画祭に招待された。1990年には映画プロデューサーと初映画監督を兼ねた『リメインズ 美しき勇者たち』を手がけ、アクション作品の全盛期を牽引していた。(⇒ #2022年#アクション作品

1981年から演劇にも進出し、『ゆかいな海賊大冒険[117]』(1982年 - 1984年)、『酔いどれ公爵』(1985年)など複数の作品を企画・演出・主演し、JACミュージカルとして定期的に公演した。新宿コマ劇場の観客動員数では、3年間にわたって満員御礼となる記録的な成功を収めている[117]。(⇒ #ジャパンアクションクラブ (JAC)#演劇

並行して1970年代から1980年代にかけ、『七色とんがらし』(1976年)や『十字路』(1978年)、『深夜にようこそ』(1986年)、『夢に見た日々』(1989年)の人間ドラマにも主演[118][119]。1982年には楽曲「誓い(JACのテーマ)」を作詞、1985年には10年ぶりに歌手としてリリースした「曠野」の作曲も手がけ、俳優・歌手に留まらない映画監督・映画プロデューサー・作詞家作曲家など、その活躍ぶりはジャンルを越えて幅広いものであった。(⇒ #音楽#人間ドラマ
海外進出ハワイ国際映画祭(2005年

1966年から1970年代に数々の日本と諸外国との合作作品に主演するほか、1981年は『武士道ブレード』(米合作)に主演した。(⇒ #アクションスター#Sonny Chiba

1975年12月[120]、「千葉真一とアル・パチーノの共演で映画を撮りたい」とフランシス・フォード・コッポラから東映に申し入れが届いていたので[76]、海外進出のチャンスが訪れるはずだった[34]。しかしこのオファーを岡田茂 (東映) が断ったので実現せず、関係者内では「本格的な海外作品の出演をあきらめた」と認識されていた[34]。それでもハリウッドへの思いは募り[29]、水面下のアピールや主演映画の評判などで[34]、海外進出を決意[29]。その姿勢は真田広之にも大きな影響を与えており、「(師は)国内だけでなく、常に世界市場に目を向けていた。私も海外の俳優・監督と一緒に仕事をするには、どうしたらいいかを考えるようになった」と述懐している[121]。(⇒ #JAC OB OG

1990年頃からアメリカ映画の出演依頼が届き始め[34]、折しもロサンゼルスでは『激突! 殺人拳』(1974年)、『子連れ殺人拳』(1976年)など、14本の主演作がリバイバル興行されていた[122]。(⇒ #格闘作品

1991年、ジャパンアクションクラブ (JAC) の売却を経て、1992年に『エイセス / 大空の誓い』に出演[29]。これを機に拠点をロサンゼルスへ移し[29]、アメリカ合衆国でも活動をするようになり、グリーンカードも取得した[38][123]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:717 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef