千葉ロッテマリーンズ
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千葉ロッテマリーンズ
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千葉ロッテマリーンズ

活動期間2013年3月31日 -
ジャンル野球
登録者数22.8万人
総再生回数167,632,470回
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登録者100,000人2020

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千葉ロッテマリーンズ(ちばロッテマリーンズ、英語: Chiba Lotte Marines)は、日本プロ野球球団パシフィック・リーグに所属している。株式会社千葉ロッテマリーンズは、千葉ロッテマリーンズの球団運営会社である。

千葉県保護地域とし、同県千葉市美浜区にあるZOZOマリンスタジアム専用球場(本拠地)としている。二軍イースタン・リーグ所属)の本拠地は埼玉県さいたま市南区にあるロッテ浦和球場である。

1950年のリーグ分裂時に毎日新聞社を親会社とする毎日オリオンズとして発足したのち、大映ユニオンズを合併して毎日大映オリオンズ(大毎)となり、以後は親会社の変更などによりオリオンズの呼称は継続しつつもチーム名が東京→ロッテと変遷し、本拠地も東京都仙台市川崎市と変遷したが、1992年より千葉市を本拠地とし球団名も千葉ロッテマリーンズとなり現在に至る。なお、本記事ではこれらの前身球団時代についても述べる。
球団の歴史
球団創立

1949年9月、毎日新聞社を親会社とする毎日球団が設立され、毎日オリオンズ(まいにちオリオンズ)が結成された。毎日新聞社はもともと、昭和初期にセミプロ野球チーム『大阪毎日野球団』を組織していた。戦後正力松太郎からの勧誘を契機に球団結成の気運が高まり、戦前の大阪毎日野球団を基礎に自ら主催する都市対抗野球の有力選手をスカウトして球団を結成した。9月21日、日本野球連盟に加盟を申請する。

リーグ拡大の機運にも乗って加盟を申請したが、毎日新聞のライバル会社であった読売新聞社読売ジャイアンツの親会社)・中部日本新聞社中日ドラゴンズの親会社)が強く反発。交渉は平行線を辿り、毎日オリオンズと電鉄系を中心とした毎日オリオンズ加盟賛成派の阪急ブレーブス南海ホークス東急フライヤーズ大映スターズ西鉄クリッパース近鉄パールスの7球団からなる太平洋野球連盟(パシフィック・リーグ)と毎日オリオンズ加盟反対派の大阪タイガース・読売ジャイアンツ・中日ドラゴンズ・松竹ロビンス大洋ホエールズ広島カープ西日本パイレーツ国鉄スワローズの8球団からなるセントラル野球連盟(セントラル・リーグ)が結成される「2リーグ分立騒動」に発展した。詳細は「プロ野球再編問題 (1949年)」を参照

この騒動の中、大阪タイガースの主力選手であった若林忠志別当薫土井垣武本堂保次呉昌征が毎日に移籍した。加盟賛成を表明しながらリーグ分立直前に態度を翻した大阪に対し、毎日が意趣返しに大量の選手引き抜きを行ったといわれた。
毎日時代
1950年

パ・リーグ公式戦開始より参入。本拠地は後楽園球場。毎日新聞東京本社運動部長で、戦前は明治大学のエースから前述の大毎野球団の一員となった湯浅禎夫を総監督、前大阪監督の若林忠志を監督(選手兼任)とする二頭制をとり(実質的には湯浅が監督権限を掌握し、記録上の監督も湯浅である)、大阪からの移籍組に、大洋漁業(後の大洋ホエールズ)から獲得した河内卓司戸倉勝城を加えて「ミサイル打線」を形成、投手では前年の都市対抗野球を制した星野組のエース荒巻淳や、大洋から獲得した野村武史が活躍。10月25日、対東急戦に勝利して、活動1年目にしてリーグ優勝、日本シリーズでも松竹ロビンスを4勝2敗で圧倒し、初の日本シリーズで優勝を達成し、2リーグ制初代日本一球団になった。打者では別当薫が本塁打王打点王の二冠王を獲得し最優秀選手となり、投手では荒巻淳が最多勝最優秀防御率の二冠王で新人王となっている。
1951年

首位南海と22.5ゲーム差のリーグ3位に終わる。
1952年

7月16日、福岡平和台野球場での対西鉄ライオンズ戦で、雨天と日没を悪用し、故意に試合をノーゲームにする毎日側の策略に観客が激怒し、暴動が発生(平和台事件)。7月27日、責任を取り総監督の湯浅、監督の若林が2人とも更迭される。この年は南海と争うものの、首位南海と1ゲーム差の2位に終わる。シーズン終了後に若林、湯浅がそれぞれ復帰[2]
1953年

首位南海と14.5ゲーム差の5位。西宮球場での対阪急戦が、NHKによるプロ野球初のテレビ中継となる[3]
1954年

3位。オフには別当薫が選手兼任で監督就任。
1955年

山内和弘が打率リーグ2位の.325と打点王、中川隆が最優秀防御率を挙げ、新人の榎本喜八が新人王を獲得。チームは首位南海と14ゲーム差の3位に終わる。
1956年

首位西鉄と13.5ゲーム差の4位。
1957年

シーズン成績は3位。
毎日大映(大毎)→東京オリオンズ時代

1957年11月28日、成績が低迷していた大映ユニオンズ(大映野球)と対等合併し、毎日大映オリオンズ(まいにちだいえいオリオンズ)に改称。略称は大毎オリオンズ(だいまいオリオンズ)。新会社毎日大映球団[注釈 1]が設立。球団組織と法人格は毎日側を存続させ、形式的には毎日新聞社大映の共同経営としたが、実質的な経営は大映側が掌握し、同社社長の永田雅一がオーナーに就任する「逆さ合併」だった。


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