千住宿の賑わい
千住宿は、『新編武蔵風土記稿』にて、千住宿の規模やその商業的な賑わいや旅行者の往来について記録されている[8]。駅の広さ東西十四五町、南北三十五町ありて、宿並間数千二百五十六間、その左右に旅亭商家軒をならべて、旅人絶ゆることなく、もっとも賑はへり ? 新編武蔵風土記稿
江戸市街の喉もとで奥州街道、水戸街道の始点として、日光・東北方面への旅人で賑わったという。幕末期には家は2,400軒近い。人口は約1万人に達する江戸四宿最大級の宿場町になった。文政4年(1821年)の調べによると、江戸参勤の大名は、日光街道4、奥州街道37、水戸街道23、計64の大名が千住の宿を往来していた。
千住の宿場町
千住の宿場町の構成は、千住二丁目と掃部宿に残る文政6年(1823年)の記録がある。職業が明らかなものだけについてみると、鮒屋8軒、穀屋、八百屋、胡粉屋、百姓各2軒、餅屋、肴屋、桶屋、紫刈屋、鍵屋、鍛冶屋、棒屋、左官、大工、鯉屋、わら屋、湯屋、木材屋各1軒である。その他職業が分らないもの23軒、宿屋は「岡場所考」にあるだけでも45軒といわれている[7]。一角には接骨医として著名な名倉家が診療所を構え、患者で賑わっていたという[12]。宿場の外れには小塚原刑場が設置され、寛文7年(1667年)には、刑場付近の土地は回向院に与えられ、子院を建てた回向院は刑死した人の埋葬と供養を行った[13]。
『日光道中宿村大概帳』によると、天保14年(1843年)千住宿には本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠55軒が設けられていた。宿内の家数は2,370軒、人口は9,456人であった[14]。その他、掃部宿には「一里塚」[15]、「高札場」、千住一丁目に「問屋場 貫目改所」が設置された。元禄9年(1696年)には不足する人馬を周辺の村々から集める助郷制が定められた。
千住宿の廃止明細改正東京新図 1886年(明治19年)
右上に千住が確認できる。荒川北岸に千住北組・中組があり、南岸に南組があり、陸前浜街道(水戸街道)が千住北組で奥州街道から分岐している
助郷制度の廃止と陸運会社の成立
明治時代になると、助郷制度が廃止され、代わりに陸運会社が置かれていった。明治初期には、交通の面に関していえば旧幕府時代の本陣、問屋場や弊害の多かった徳川幕府が諸街道の宿場の保護、および、人足や馬の補充を目的とした助郷制度等の封建的な交通機構は廃止された。明治4年に政府は従来の伝馬所を廃止し、各宿駅に陸運会社を設立した[16]。
町村の再編成
明治時代には、明治維新による1878年(明治11年)地方制度に関する太政官布告「郡区町村編制法」の施行 および1888年(明治21年)「市制及町村制」を経て、千住南組を東京府北豊島郡南千住町、本宿であった千住北組、新宿であった千住中組は併合して同府南足立郡千住町とし郡役所を同町に置いた。千住大橋を境に再び南北に分離され、現在では北側は足立区、南側は荒川区に属している[17]。 千住宿は日光街道および奥州街道の初宿で、水戸街道はここから分岐していた。荒川・綾瀬川が付近で交差していたことから水運(特に舟運)の中継地点として橋戸河岸(千住河岸)が置かれていた。また、河原町には千住青物市場(やっちゃ場)が設置されていた。このように、内陸交通の分岐地点、水運交通の中継地点、問屋の集中などから、江戸に物資を運び込むための中継地点としても発展した。 千住青物市場、問屋、そして産物 千住青物市場は、江戸に物資を運び込むための中継地点としても発展した。『南足立郡誌』によると、千住青物市場は後陽成天皇の天正年間(豊臣秀吉時代)に始まったという。この地は荒川に沿い関屋の里と称していたが、この時期は部落とされるものでなく人家の散在し、農家や漁夫により農産物、川魚の交換が行われた村に過ぎなかった。しかし、奥州街道、水戸街道の交通の要所となったことにより、戸数が増加したとある[18]。 江戸時代、神田・駒込・千住の三市場は幕府の「御用市場」として青物を上納していた。『南足立郡詩』によると、享保20年(1735年)3月市場の、『継続書記録』には後光明天皇の正保(徳川家光時代)、後西院天皇の明暦(徳川家綱時代)年間にはすでに市場として営業していた。千住大橋の架橋に伴い、農産物・川魚の中継地点となり、明暦より中御門天皇の享保(徳川吉宗時代)の時期には農産物・川魚などの産物が集合・出荷されており、幕末には、武蔵、上総、下総、常陸方面の農産物も集まり繁栄した。
物資流通・商業施設
千住青物市場