千代の富士貢
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^ 天龍に弾かれるようにしていなされ一方的に突き出されるなどの敗戦がある。
^ 自著『負けてたまるか』では父が戦時中に広島で被爆していたことについて記述されており、肩のかみ合わせとの因果関係が示唆されている[13]
^ 肩を徹底的に鍛えて筋肉で固めたことが脱臼しにくくする効果はあった反面、脱臼してしまうと元に戻すことが非常に難しくなってしまい、これを治せた人は元大関・清國の伊勢ヶ濱親方1人だけだった。このため千代の富士が肩を脱臼すると伊勢ヶ濱親方がすぐに支度部屋に駆けつけていたほどだった。はめ直すシーンはたびたびテレビ中継で放映された。
^ この取り口の変化は北の富士も予想していなかった。北の富士は「前みつを取って食い下がって投げを打って勝つような相撲になると思っていた」と語っている。
^ 立合いから左前みつを取って攻め立てた。敗れはしたものの足腰の良さを発揮して輪島の投げを再三しのぎ、連続投げについていく場面、瞬発力を活かして攻勢に出る瞬間もあった。最後は吊り出されて敗れたが、輪島を吊ろうとする場面もあった。
^ 横審が「長続き」を指摘したのは、千代の富士が肩の怪我を乗り越えて幕内に戻ってきた経歴と、直近の横綱である若乃花が休場がち、三重ノ海が短期で引退に追い込まれたことが背景としてあった(いずれも1981年7月21日付朝刊スポーツ面)。
^ 1984年11月場所終了時点で優勝回数は10回に到達したが、蔵前国技館で開催の東京場所の優勝は2回のみ(1981年1月場所・1982年5月場所)に終わっている。
^ この時は賜杯を受け取り損ねることがないように武蔵川親方(三重ノ海)が表彰式に付き添っていた。
^ 直前の9月場所で千代の富士は29回目の優勝を達成、また授与式が行われたのも9月29日であった。さらに、授与した側である海部俊樹は、「第29回衆議院議員総選挙に29歳で初当選したから、29年後には総理大臣になる」と公言して、実際に29年後の1989年に総理大臣に就任したばかりであった。
^ このため、一代年寄に千代の富士を含めるかどうか解釈が分かれているが、大鵬は自身の還暦土俵入りの際に「千代の富士も含まれる」との見解を示し、この還暦土俵入りに千代の富士(九重)を露払いとして随行させている。
^ その20年後の2010年5月場所千秋楽に魁皇も史上2人目の通算1000勝を達成した。
^ 当初は翌日(5月15日)に引退発表する予定で千代の富士も既に帰宅していたが、当日夜にマスコミに引退情報が漏れ(千代の富士も『まんが名作劇場 サザエさん』を視聴中にニュース速報のテロップが表示され、驚いたという)、取材陣が九重部屋に押し寄せる事態になったため、九重(元横綱・北の富士)の判断で急遽会見を前倒しした。
^ なお、引退を表明した5月14日は午前10時35分頃に信楽高原鐵道列車衝突事故が発生していたため、マスコミやテレビ局各社にとっては事故の報道と横綱の引退報道が合わさる形となり、多忙をきわめた1日となった。
^ 2002年には北の富士の還暦土俵入りに太刀持ちとして率先して随行するなど、個人的な関係までは悪化しなかった。また、北の富士は不仲については否定し、「信頼している」とまで発言していた(北の富士さん無念「コメントする気になれない」 - 日刊スポーツ、2016年8月1日、9時53分)。
^ 旧九重→八角部屋の施設は北の富士が所有しているため。北の富士は相撲協会退職後も八角部屋最上階に居住している。
^ 北の富士は「千代の富士は一人でやれるし、いても邪魔になるだけ。八角は応援してやらんと」と、九重の能力を評価し、自由に運営できるようにするために配慮したことと同時に、八角への支援の必要性があったことを理由としている。
^ 千代大海が継承した後も、2020年に葛飾区に移転するまでの間、千代の富士の遺族から施設を借用している。
^ たとえば、三段目に昇進すると四股名が与えられるが、全ての力士に「千代?」と命名していた。なお、千代大海が九重部屋を継承してからは、「三段目に上がることを最終目標にしてはいけない」ということで新弟子の時点で四股名が与えられる方針に変わったが、やはり全員「千代?」と命名されている。
^ 千代の山が出羽海部屋から独立した際に出羽一門を破門され、高砂一門入りしたことによる。
^ 八角が九重部屋から独立した際に部屋付の年寄が全員八角部屋に移籍したことも影響している。
^ 2019年に貴景勝光信が大関に昇進しているが、その時点で師匠だった貴乃花は相撲協会を退職している。
^ 元DESTROSE、Mary's BloodのギタリストERIのこと。
^ 同じことを貴ノ花は栃赤城にも勧めたとされているが、栃赤城は「それならば幕内を維持しているほうがいい」と言って拒否したという。
^ 同様に千代の富士は賜杯と共に自身の子供を抱いての記念撮影を長女、長男、三女とも行っている(長女は1984年11月場所、長男は1987年11月場所、三女は1989年3月場所)。
^ 特に初めて番組に顔を出したときには、アン・ルイス吉川晃司との過激なパフォーマンスを展開して物議を醸した回で、歌の最中に千代の富士は不機嫌な表情を浮かべながらその一部始終を見届けており、その形相を気にした芳村が話題をそらそうとして千代の富士に頻繁に話しかけていた。
^ 該当の回は芳村のパートナーの司会者が井上順から古舘伊知郎に交代した初回であり、古舘が当時実況を担当していた『ワールドプロレスリング』の繋がりで、この番組で試合を中継していたプロレス団体である新日本プロレスの当時社長で古舘と交友のあったアントニオ猪木も出演していた。
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