1994年春頃、宮崎は自宅付近を流れるドブ川を観察する。川の中では、ユスリカの幼虫が大量発生して、汚濁した水の中で懸命に生きていた。宮崎はその様子を見て「今後の人間の運命」を感じる経験をした。後に宮崎は地元有志とドブ川を掃除し、そのときの経験が汚れた河の神の内部から自転車などを引き出すシーンとして活かされた[223][229]。その後も川掃除は宮崎の習慣になっており、2016年に一般市民が制作したドキュメンタリー作品では、宮崎が川掃除などの地域の清掃活動に取り組む様子が収められている[230]。
千尋が車の後部座席で揺られながら不満を口にしている冒頭の場面について、押井守は、これは宮崎が元々『柳川堀割物語』のオープニングとして検討していたものであり、諦めきれなかったものではないかと推測している[231]。また押井は、千尋とカオナシが路面電車に乗って銭婆に会いに行く場面は、明らかに三途の川をイメージしたものとみており、宮崎も意識しているだろうと述べている[232]。 鈴木敏夫は、宣伝の量と上映館のキャパシティの両方を『もののけ姫』の倍にする計画を立てたと語っている[233]。鈴木を奮起させたのは、宮崎駿の息子、吾朗と、博報堂の藤巻直哉の言葉だった。鈴木は、前作に続いて今作でも大ヒットが続けば、宮崎がおかしくなってしまうのではないかと心配していた。しかし、宮崎吾朗は、当時デザインに取り組んでいた三鷹の森ジブリ美術館の成功を望み、『千と千尋の神隠し』を前作の倍ヒットさせてほしいと言った。のちに『崖の上のポニョ』の主題歌を歌うことになる藤巻直哉は、2000年の秋頃に赤坂でばったり鈴木と出くわした[234]。当時、電通と博報堂は1作ごとに交代で製作委員会に入っていたため、博報堂の担当者である藤巻は関わっていなかった。藤巻はそこで次のようなことを漏らした。次の作品は、『もののけ姫』の半分は行くだろうとみんな言っている。電通がうらやましい、と。鈴木はこの言葉にいきり立ち、必ずや『千と千尋』を大ヒットさせると決意する[234][235]。 2001年3月26日、江戸東京たてもの園で製作報告会[191]。宮崎は、「幼いガールフレンド」たちが本当に楽める映画を作りたいと制作の動機を語った[236]。徳間書店・スタジオジブリ・日本テレビ・電通・ディズニー・東北新社・三菱商事が製作委員会を組んだ。本作から新たに加わった出資企業は2社。ディズニーは『ホーホケキョ となりの山田くん』から参加していたが、東北新社と三菱商事は初参加だった。
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