安藤は制作終了後のインタビューで、最終的には作品と距離をおいた関わり方になってしまったこと、全体としては宮崎の作品の枠を出ることができなかったこと、当初自分で思い描いていた作品はどうしても実現できなかったことを振り返っている[182]。しかし、宮崎は「安藤の努力と才能がいい形で映画を新鮮にしている」と評価しており[187]、鈴木は宮崎と安藤の緊張関係によって画面に迫力がみなぎるようになったと語る[180]。安藤は本作を最後にジブリを退職したが[168][188]、『かぐや姫の物語』(2013年)にはメインアニメーターとして、『思い出のマーニー』(2014年)には作画監督および脚本(連名)としてジブリ作品に再び参加している。 2000年9月20日、スタジオジブリ社長、徳間康快が死去。10月16日、新高輪プリンスホテルにてお別れ会。宮崎は会の委員長を務めた[169]。葬儀に出席する喪服の男たちがみなカエルのように見えたと語っており、作中に登場するカエル男たちとの関係をほのめかしている[67]。徳間は作品の完成を見ずにこの世を去ったが、「製作総指揮」としてクレジットされている。 同時期、作画作業の遅延は深刻化していた。前述の通り作画監督が増員されたのはこのころだった。経験の浅い新人アニメーターに対しては「遅くとも1人1週間で1カットあげる」という目標を設定したが、それだけではとても公開に間に合わない計算になり、鈴木は頭を悩ませた。社内で上げたカットは全体の半分程度にとどまり、残りは外注で仕上げた。アニメーターの小西賢一に依頼して実力のあるフリーアニメーターをリストアップしてもらい、支援を要請した[189]。 動画・彩色は、国内の外注スタジオに委託しただけでは間に合わないということが明らかになった[190]。そこで、ジブリ創設以来はじめて、海外スタジオに動画と仕上を外注することを決断[191]。
作業の遅延