十字軍の遠征
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軍制と文化「十字軍国家」も参照クラック・デ・シュヴァリエ。聖ヨハネ騎士団によって建設され、当時の十字軍国家最大最強の要塞であった。

平時において十字軍の成果を維持し続けていたのが十字軍国家である。現地において建国された4つの十字軍国家(エルサレム王国トリポリ伯国アンティオキア公国エデッサ伯国)においては、彼らの軍事的根源地である西欧から遠く離れ、イスラム教徒に囲まれた最前線にあることから、強力な軍事力が常に求められた。これらの十字軍国家においては、当初は西欧と同じ封建制による貴族や騎士による軍事制度がしかれたが、第1回十字軍に参加した騎士の多くが帰国するなど当初から軍事力は不十分なものであった。これを補うために西欧からの移民が求められたが、1101年に出発したこの武装移民団は陸路移動の途中でイスラム勢力によって粉砕され、以後も大規模な移民団が来ることはほとんどなく、西欧人、ひいては軍事力の不足状態は続いた。もっとも、巡礼としてやってきた人々が移民としてそのまま居住するようになることは多く、西欧系の住民の補充は続いていた。1120年代からは入植者の増加が始まり、1180年代には十字軍国家におけるヨーロッパ人の人口は10万人から12万人にまで膨れ上がり、ヨーロッパ系の入植新村も建設されるようになった。しかし、それでもヨーロッパ系は全人口の20%程度にとどまり、イスラム教徒と対抗する軍事力の基盤とするには不足であったことに違いはない[30]

これを補うために作り出されたのが騎士修道会(騎士団)であり、1119年に創設されたテンプル騎士団1113年に認可された聖ヨハネ騎士団、そしてそれにやや遅れて1197年に公認されたドイツ騎士団の三大騎士団がエルサレムや十字軍国家内に駐屯し、キリスト教諸国家の防衛に当たった[31]

この地方に土着した貴族たちはイスラムの文化を少しずつ受け入れ、次第にイスラムに融和的な姿勢をとるようになっていった。これに対し、西方から新たに十字軍としてやってきた将兵はイスラムに敵対的な態度をとり、第2回十字軍の時に十字軍国家と同盟関係にあったダマスカスを攻撃するなど現地の事情を理解せずに軍事行動を起こすことも多く[32]、両者は十字軍内でもしばしば対立を起こしている。
イスラム側の認識

「十字軍」はキリスト教側の呼称であり、イスラム教徒側は「フランク」の侵攻と認識していた。

イスラム教徒の支配する中東は、中小の豪族が群雄割拠しており、互いに利害は一致しなかった。このことが、緒戦で数に劣る十字軍への敗退が相次いだ原因だった。イスラム教徒の反撃の端緒とされるザンギーヌールッディーンは大義名分として、イスラム教勢力の統一とキリスト教徒撃退を挙げるようになるが、主要な敵はなお他のイスラム地方政権だった。イスラムの聖戦との認識が広まってきたのは、サラーフッディーンがイスラム勢力をほぼ統一し、エルサレムを陥落させる前後からで、第3回十字軍との戦いを通して確立されていったが、その後も、第6回十字軍の時のように、状況によってはキリスト教徒と妥協や共存することに抵抗を持っていなかった。

2017年現在でも十字軍はイスラーム過激派からは目の敵とされているという意見はある[33]
その後

1291年に全てのパレスチナがイスラム勢力下に入った後も小規模な遠征の事例があり、十字軍の名が冠されているものの(1308年ロドス十字軍1343年~1351年スミルナ十字軍1344年キプロス十字軍、1365年サヴォイ伯十字軍1440年ヴァルナ十字軍など)、本来の十字軍とは区別されている。その後、1453年オスマン帝国の台頭によって東ローマ帝国が滅ぼされると、ローマ教皇ピウス2世は熱心に十字軍を提唱し(1459年1463年)、応じる国は少なかったが、1464年には教皇自ら十字軍の出発地とされたアンコーナに赴いている。この地で教皇が逝去したため、直ちに遠征は中止された。

1683年第二次ウィーン包囲失敗によるオスマン帝国の敗走によってローマ教皇インノケンティウス11世はオーストリア、ポーランドロシアヴェネツィア神聖同盟を持ちかけている(後に大トルコ戦争に発展)。これは十字軍の名で語られていないが、意図するものがあった可能性がある。
脚注[脚注の使い方]^ 野澤武史 著、全国歴史教育研究協議会 編『世界史用語集』山川出版社、2020年12月15日、98頁。.mw-parser-output cite.citation{font-style:inherit;word-wrap:break-word}.mw-parser-output .citation q{quotes:"\"""\"""'""'"}.mw-parser-output .citation.cs-ja1 q,.mw-parser-output .citation.cs-ja2 q{quotes:"「""」""『""』"}.mw-parser-output .citation:target{background-color:rgba(0,127,255,0.133)}.mw-parser-output .id-lock-free a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-free a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/65/Lock-green.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-limited a,.mw-parser-output .id-lock-registration a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-limited a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-registration a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/d6/Lock-gray-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-subscription a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-subscription a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/aa/Lock-red-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-ws-icon a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/4c/Wikisource-logo.svg")right 0.1em center/12px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-code{color:inherit;background:inherit;border:none;padding:inherit}.mw-parser-output .cs1-hidden-error{display:none;color:#d33}.mw-parser-output .cs1-visible-error{color:#d33}.mw-parser-output .cs1-maint{display:none;color:#3a3;margin-left:0.3em}.mw-parser-output .cs1-format{font-size:95%}.mw-parser-output .cs1-kern-left{padding-left:0.2em}.mw-parser-output .cs1-kern-right{padding-right:0.2em}.mw-parser-output .citation .mw-selflink{font-weight:inherit}ISBN 978-4-634-03304-7。 
^ 木村靖二 岸本美緒 小松久男(ほか6名)『詳説世界史』(改訂版)山川出版社、2022年3月5日、138頁。ISBN 978-4-634-70034-5。 
^ 八塚春児『十字軍という聖戦』(NHKブックス1105、2008年)p.29。八塚はp.14-18で、「十字軍」という訳語は西周による造語ではないかと推定している。
^ 山内 1997, pp. 64-65.
^ 「図説 十字軍」p24-28 河出書房新社 櫻井康人 2019年2月28日初版発行
^ 山内 1997, pp. 69-71.
^ 井上 2008, p. 229.
^ 堀越 2006, pp. 344-345.
^ Burgturf, Jochen. "Crusade of 1239?1241". The Crusades: An Encyclopedia. pp. 309-311.
^ Painter, Sidney (1977). " ⇒The Crusade of Theobald of Champagne and Richard of Cornwall, 1239-1241.". In Setton, K., A History of the Crusades: Volume II. pp. 463-486.
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^ Jackson, Peter. "The Crusades of 1239?1241 and Their Aftermath". Bulletin of the School of Oriental and African Studies, Vol. 50, No. 1 (1987). pp. 32?60. JSTOR 61689.
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^ Burgturf, Jochen. "Gaza, Battle of (1239)". The Crusades: An Encyclopedia. pp. 498?499.
^ Tyerman 2006, pp. 755?780, The Crusades of 1239?1241.


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