十字軍の遠征
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羊飼い十字軍

1251年1320年-1321年との二度ある。1321年には3万人がスペインのトゥデラを襲い、現地のユダヤ人を殺戮した。

十字軍の影響ロンドンウェストミンスター宮殿にあるリチャード1世の像

十字軍は、東方の文物が西ヨーロッパに到来するきっかけともなり、これ以降盛んになる東西の流通は、後のルネサンスの時代を準備することにもなった。また近東地方の優れた城郭を実地に見た諸侯たちは各地でそれに倣って改良した城郭を建てた[27]

11世紀以降盛んとなっていた地中海交易は、十字軍の輸送や補給、さらに西欧勢力がシリア・パレスチナといった地中海東岸の一角を抑えたことでより一層発展し、主な担い手であるヴェネツィア共和国ジェノヴァ共和国はこの時期に隆盛を迎えた。特にヴェネツィアは第4回十字軍を利用してザラやコンスタンティノープルを抑え、最盛期を迎えている[28]

東ローマ帝国は、1261年に復活したものの第4回十字軍によって受けた打撃から立ち直れずに衰退し、1453年の滅亡に至った(コンスタンティノープルの陥落)。

西欧においては、十字軍は西欧が初めて団結して共通の神聖な目標に取り組んだ「聖戦」であり、その輝かしいイメージの影響力は後日まで使われた。後の北方や東方の異民族・異教徒に対する戦争ほか、植民地戦争などキリスト教圏を拡大する戦いは十字軍になぞらえられた。また異国への遠征や大きな戦争の際には、それが苦難に満ちていても、意義ある戦いとして「十字軍」になぞらえられた。

西洋では17世紀以降、戦争を伴わない宗教的な運動をも「十字軍」と呼ぶようになり、以来さらに使われる範囲が拡大し、英米では@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}「正義の味方」と言う意味[要出典]の単語としてcrusadeと言う語を用いる。

現在では大きな目標を掲げた単なるキャンペーンのようなものも、「ゴミに対する十字軍」「文盲に対する十字軍」などのように「十字軍」に例えられている。「草刈り十字軍」は有名。もっとも、十字軍の歴史の見直しやイスラム教徒に対する配慮などから近年では社会運動の名称などに使用されることは少なくなっている。[要出典]

2001年アメリカ大規模テロ事件では、ブッシュ米大統領が「this crusade, this war on terrorism(これは十字軍だ、これはテロリズムとの戦争だ)」と発言し、イスラム教の反発を受け撤回した。しかし、ブッシュ政権によるアフガニスタン侵攻イラク侵攻を「第十次十字軍」と呼ぶ者[誰?]もあった。


北欧においては、近代スウェーデンフランス革命や、ロシア帝国によるポーランドに対する弾圧に対して欧州諸国に十字軍を呼びかけている。フランス革命においては、「反革命十字軍」と言われている。しかし19世紀に入ると最早、十字軍の名の使用は時代遅れとなっていた。[独自研究?]

ロシア帝国皇帝アレクサンドル1世も、オスマン帝国に対する十字軍を構想している。

ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世は十字軍や異端審問などについて公式に「異端に対する敵意を持ち、暴力を用いた。これらカトリック教会の名誉を汚した行いについて謹んで許しを求める。」として謝罪した。さらに、2001年には十字軍による虐殺があったことを正式に謝罪した。これはカトリック教会にとって、十字軍の評価に対する大きな転換であった。

十字軍の実態

十字軍はキリスト教圏の諸侯からなる大規模な連合軍であった。宗教的な情熱が強かったはずの第1回十字軍ですら、エデッサ伯国やアンティオキア公国などの領土の確立に走る者が出ており、第4回十字軍に至っては、キリスト教正教会国家である東ローマ帝国の首都コンスタンティノポリス(現イスタンブール)を攻め落としてラテン帝国を築くなど、動機の不純さを露呈している。のみならず、同じカトリックの国であるハンガリーまで攻撃し、教皇に破門宣告されている。

そして、イスラム教徒やユダヤ教徒など、異教の者へは虐殺をためらわず、マアッラ攻囲戦では双方の記録で、十字軍による食人が記録されている。またギリシャ正教など、他の宗派に属する者も冷遇した。

元々はエルサレムの回復を目的としていた十字軍であるが、後には、キリスト教徒から見た異教徒やローマ教皇庁から異端とされた教会や地方の討伐軍をも十字軍と呼ばれるようになった。このような例としてはアルビジョア十字軍などが知られており、ヨーロッパにおいても非難されることになる。

ローマ教皇庁は1270年から十字軍についての意見調査を行っている。調査結果にはルイ9世の死は神の意思であるとするものや、不信心者は殺すのではなく改心させるべきとするものなど十字軍に否定的な意見が多数含まれていた。また、犯罪者が刑罰から逃れるために従軍していることから、一般人から十字軍参加者そのものが罪人とみなされていること、名誉を重んじる者が参加したがらないということも明らかにされた。十字軍が同じキリスト教徒に対しても行われたことは悪夢とみなされていた。これらの調査結果を受けてグレゴリウス10世は聖地奪回のための新たな十字軍を計画しなかった[29]
軍制と文化「十字軍国家」も参照クラック・デ・シュヴァリエ。聖ヨハネ騎士団によって建設され、当時の十字軍国家最大最強の要塞であった。

平時において十字軍の成果を維持し続けていたのが十字軍国家である。現地において建国された4つの十字軍国家(エルサレム王国トリポリ伯国アンティオキア公国エデッサ伯国)においては、彼らの軍事的根源地である西欧から遠く離れ、イスラム教徒に囲まれた最前線にあることから、強力な軍事力が常に求められた。これらの十字軍国家においては、当初は西欧と同じ封建制による貴族や騎士による軍事制度がしかれたが、第1回十字軍に参加した騎士の多くが帰国するなど当初から軍事力は不十分なものであった。これを補うために西欧からの移民が求められたが、1101年に出発したこの武装移民団は陸路移動の途中でイスラム勢力によって粉砕され、以後も大規模な移民団が来ることはほとんどなく、西欧人、ひいては軍事力の不足状態は続いた。もっとも、巡礼としてやってきた人々が移民としてそのまま居住するようになることは多く、西欧系の住民の補充は続いていた。1120年代からは入植者の増加が始まり、1180年代には十字軍国家におけるヨーロッパ人の人口は10万人から12万人にまで膨れ上がり、ヨーロッパ系の入植新村も建設されるようになった。しかし、それでもヨーロッパ系は全人口の20%程度にとどまり、イスラム教徒と対抗する軍事力の基盤とするには不足であったことに違いはない[30]

これを補うために作り出されたのが騎士修道会(騎士団)であり、1119年に創設されたテンプル騎士団1113年に認可された聖ヨハネ騎士団、そしてそれにやや遅れて1197年に公認されたドイツ騎士団の三大騎士団がエルサレムや十字軍国家内に駐屯し、キリスト教諸国家の防衛に当たった[31]

この地方に土着した貴族たちはイスラムの文化を少しずつ受け入れ、次第にイスラムに融和的な姿勢をとるようになっていった。これに対し、西方から新たに十字軍としてやってきた将兵はイスラムに敵対的な態度をとり、第2回十字軍の時に十字軍国家と同盟関係にあったダマスカスを攻撃するなど現地の事情を理解せずに軍事行動を起こすことも多く[32]、両者は十字軍内でもしばしば対立を起こしている。
イスラム側の認識

「十字軍」はキリスト教側の呼称であり、イスラム教徒側は「フランク」の侵攻と認識していた。

イスラム教徒の支配する中東は、中小の豪族が群雄割拠しており、互いに利害は一致しなかった。このことが、緒戦で数に劣る十字軍への敗退が相次いだ原因だった。イスラム教徒の反撃の端緒とされるザンギーヌールッディーンは大義名分として、イスラム教勢力の統一とキリスト教徒撃退を挙げるようになるが、主要な敵はなお他のイスラム地方政権だった。イスラムの聖戦との認識が広まってきたのは、サラーフッディーンがイスラム勢力をほぼ統一し、エルサレムを陥落させる前後からで、第3回十字軍との戦いを通して確立されていったが、その後も、第6回十字軍の時のように、状況によってはキリスト教徒と妥協や共存することに抵抗を持っていなかった。


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