十字軍の遠征
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第5回十字軍詳細は「第5回十字軍」を参照

1218年 - 1221年
第5回十字軍のアンドラーシュ2世エルサレム国王ジャン・ド・ブリエンヌ

教皇ホノリウス3世の呼びかけに応じたハンガリー王アンドラーシュ2世オーストリア公レオポルト6世らがエルサレム王国の国王ジャン・ド・ブリエンヌらとアッコンで合流し、アンドラーシュ2世は帰国したものの、レオポルトやジャンらはイスラムの本拠であるエジプトの攻略を目指した。1218年にエジプトの海港ダミエッタを包囲し、1219年に攻略。ここでアイユーブ朝側は旧エルサレム王国領の返還を申し出たのだが、あくまでも戦闘を続けエジプトの首都カイロを落とそうとする枢機卿ペラギウスとレオポルトやジャンが対立し、レオポルトやジャンは帰国。1221年には神聖ローマ皇帝のフリードリヒ2世からの援軍を受け攻勢に出たが、エジプト軍を打ち破ることができず大敗し、ペラギウスら残る全軍が捕虜となって十字軍は失敗に終わった[8]
第6回十字軍詳細は「第6回十字軍」を参照

1228年 - 1229年
フリードリヒ2世とアル=カーミルの交渉
フリードリヒ2世:左から2番目の人物
アル=カーミル:中央の人物

グレゴリウス9世は、十字軍実施を条件に戴冠した神聖ローマ帝国皇帝フリードリヒ2世に対して度々遠征を催促していたが、実施されないためフリードリヒを破門した。1228年になって、破門されたままフリードリヒは遠征を開始。故に「破門十字軍」「フリードリヒ十字軍」とも呼ばれる。当時エジプト・アイユーブ朝のスルタンアル=カーミルは内乱に悩まされており、フリードリヒの巧みな外交術もあって、戦闘を交えることなく1229年2月11日に平和条約(ヤッファ条約)を締結。フリードリヒは、聖墳墓教会はキリスト教徒に返されるがウマルのモスクとアル・アクサ寺院はイスラムが保持するとの条件でエルサレムの統治権を手に入れた。教皇グレゴリウス9世は、カトリック教会を破門されたままであった皇帝フリードリヒ2世がエルサレムの王となったことを口実に、フリードリヒに対する十字軍を実施したが皇帝軍に撃退され、1230年にフリードリヒの破門を解いた。
1239年から1241年における十字軍詳細は「en:Barons' Crusade」を参照

1239年 - 1241年

1239年から1241年にかけて、フランス・イングランド諸侯を中心とした男爵十字軍(英語版)という聖地遠征が行われた。この十字軍遠征は領域的観点から見ると、第1回十字軍以来最も成功した十字軍遠征であった[9]。この十字軍は2つの軍団に分かれており、先発隊がナバラ王国の国王テオバルド1世によって、後発隊がコーンウォール伯(英語版)リチャードによって率いられていた[10]。この男爵十字軍は最後のラテン皇帝ボードゥアン2世が目指していたコンスタンティノープル奪還のための遠征と並行して議論されることが多い[11]マシュー・パリス(英語版)の著作en: Chronica majora(13世紀)に描かれている「ガザの戦い」の挿絵。ムスリムに敗れた十字軍が描かれている。

1229年、神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世第6回十字軍の折、アイユーブ朝スルタンアル=カーミルと10年間の平和条約を締結した。しかし、この平和条約を締結時より非難していた当時の教皇グレゴリウス9世は、1234年に教皇勅書を発布し、条約の期限が切れると同時に十字軍遠征を行うよう広く諸侯に求めた。数多くのイングランド貴族やフランス貴族は十字架を取り参加を取り決めたが、十字軍の出陣は遅延した。なぜなら、自身が締結した条約が期限切れで破棄されるまで、フリードリヒ2世が他の十字軍諸侯の自領内通過を拒んだためであった。フリードリヒ2世は1239年に再び破門され、十字軍諸侯たちは彼の領地を避けて聖地に向かった[12]

十字軍に参加した諸侯のうち、フランス人諸侯の軍勢はナバラ国王テオバルド1世ブルゴーニュ公ユーグ4世が率いており、それにアモーリ・ド・モンフォール(英語版)やブルターニュ公ピエール1世らが参加した[13]。1239年9月、テオバルド1世はアッコに到着した。

この頃アイユーブ朝では内部対立が激化しており、テオバルド1世はその内戦に巻き込まれることとなった。1238年、第6回十字軍の際にフリードリヒ2世と平和条約を締結したアイユーブのスルタンアル=カーミルが崩御したのち、カーミルの2人の息子たちアル=サーリフアル=アーディル2世がアイユーブ・カリフの座を巡って争っていた[14] 。またカーミルの兄弟でサーリフの叔父であるアル=サーリフ=イスマイール(英語版)がサーリフからダマスカスを奪い取り、アル=アーディル2世を正統なスルタンと見做してサーリフに対抗するなどしており、アイユーブ朝は混乱していた。

そんな混乱した状況の中聖地に着陣したテオバルド1世は、アシュケロンを要塞化しエルサレム王国南部の国境の防御を固め、ダマスカスに進軍することを取り決めた。その後十字軍はアッコからヤッファに進軍したが、同時にアイユーブ朝のエジプト軍も国境防衛のために進軍した。そして両者はガザの戦い(英語版)で激突した[15]

この戦いにおいて、一部の離反した十字軍は総大将テオバルド1世の指示や騎士団の助言に従わなかった。彼らはさらなる遅延をよしとせず敵に向かって進軍を続けたが、周到な準備をしなかったためにムスリム軍に敗れた。騎士団の軍事指揮官はテオバルド1世に対して、これ以上のエジプト軍の追撃を避け、フランク人捕虜の奪還も避けた上で撤退するよう進言し、十字軍はアッコまで撤退した。詳細はガザの戦い(英語版)を確認されたし。

ガザの戦いから1ヶ月後、カラクのエミールであったen: An-Nasir Dawudによって、事実上無防備のまま放置されていたエルサレムが掌握された。しかしアイユーブ朝では内部対立が続いていたため、このような状況に置かれたテオバルド1世はまだエルサレム返還を求めたアイユーブ朝との交渉を続けることができた。1240年9月、テオバルドはヨーロッパに向けて帰陣した。アッコにはブルゴーニュ公ユーグ4世が残り、アシュカロンの要塞化を支援した[16]

1240年8月、コーンウォール伯リチャード率いるイングランド人諸侯からなる第二遠征軍が到着した[17] 。十字軍はヤッファに進軍し、その地でアイユーブ朝との講和条約を締結した。この条約はほんの数ヶ月前にテオバルドによって提唱されたものだった。リチャードは講和に同意し、1241年2月8日までにアイユーブ側もこれに同意した。そして4月13日、両者が有していた捕虜を解放した。アシュカロンの要塞化はこの間にもリチャードの軍勢の支援のもとで続けられ、1241年半ばごろに完成した。リチャードはこの新しい砦を帝国の代理人に任せ、1241年5月3日、イングランドに向けて帰っていった[18]

男爵十字軍が行われた頃と同時期に別の十字軍遠征も並行して行われていた。ラテン帝国の若き皇位継承者ボードゥアン2世によるニケーア帝国に対する遠征である。1239年7月、ボードゥアンは小規模の軍隊と共にコンスタンティノープルへ向けて旅立ち、1239年冬に無事コンスタンティノープルに到着した。そして1240年のイースター祭の前後に彼はラテン皇帝の帝冠を授かった。ラテン皇帝となったボードゥアンは、十字軍遠征を開始し、コンスタンティノープルから西方に75マイルの距離にあるニケーア帝国の要塞チョルル(英語版)を攻め落とした[19]


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