十字軍の遠征
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その他の十字軍

一般的に十字軍といえば上記のエルサレムやイスラム諸国を目指した十字軍を指すが、十字軍とは教皇が呼びかけ、参加者に贖宥を与える軍事行動に与えられる名称であるため、上記の他にも様々な十字軍が行われた。これらの十字軍を大別すると、

旧キリスト教圏の回復・奪回

異端への討伐軍

教皇に敵対する勢力への軍事行動

異教徒への布教・征服

の4つに分けられる。上記のエルサレム十字軍やレコンキスタなどはキリスト教圏の回復、アルビジョア十字軍は異端討伐、北方十字軍は異教徒への布教征服に該当する。
レコンキスタ詳細は「レコンキスタ」を参照

イベリア半島においては、キリスト教国だった西ゴート王国711年ウマイヤ朝に敗れて滅亡した後、北部のキリスト教勢力と中南部のイスラム勢力とが抗争を繰り返していた。1031年後ウマイヤ朝が滅亡するとキリスト教勢力が南進し、この中で1064年に教皇アレクサンデル2世によって初めて異教徒との戦いに贖宥が与えられ[25]、以後の十字軍にも取り入れられた。

パレスチナ十字軍の開始後も歴代教皇は度々イベリア半島に十字軍を宣し、中でも教皇インノケンティウス3世が1212年にイベリア半島の諸キリスト教国家の戦闘停止とムワッヒド朝に対する一致団結を求めた十字軍は、同年のラス・ナバス・デ・トロサの戦いに勝利を収め、以後キリスト教勢力は急速に勢力を拡大して1251年までにグラナダナスル朝を除く全てのイベリア半島を手中に収めた。
北方十字軍詳細は「北方十字軍」を参照バルト海方面でも、異教徒や正教徒に対する北方十字軍が行われた。画像は1938年製の映画『アレクサンドル・ネフスキー』において、プスコフでのチュートン騎士団 (1240年)が再現されているもの。

バルト海沿岸には古来ヴェンド人古プロイセン人、エストニア人、リトアニア人といった非キリスト教徒が居住していた。第2回十字軍が提唱された時、ドイツ北部の諸侯はエルサレムではなく隣接するこの地域への出兵を望んでいたため、1147年にこれらの北方異教徒への十字軍が認められ[26]ヴェンド十字軍が行われた。その約50年後、1193年に教皇クレメンス3世が再びバルト海沿岸の非キリスト教徒に十字軍を宣し、北方十字軍が開始された。当初はリヴォニア帯剣騎士団、やがてパレスチナよりイスラム教徒によって追放され北へと転進したドイツ騎士団によって毎年十字軍が行われ、この地方にドイツ人の東方植民が進んだ。
アルビジョア十字軍詳細は「アルビジョア十字軍」を参照

1209年-1229年

1209年南フランスで盛んだった異端カタリ派を征伐するために、ローマ教皇インノケンティウス3世が呼びかけた十字軍。レスター伯シモン・ド・モンフォールに率いられた十字軍は各地で殺戮を行い、これに反発した南フランス諸侯の反撃はあったものの、フランス国王ルイ8世の主導の下十字軍は南フランスを制圧し、1229年に終戦した。
羊飼い十字軍

1251年1320年-1321年との二度ある。1321年には3万人がスペインのトゥデラを襲い、現地のユダヤ人を殺戮した。

十字軍の影響ロンドンウェストミンスター宮殿にあるリチャード1世の像

十字軍は、東方の文物が西ヨーロッパに到来するきっかけともなり、これ以降盛んになる東西の流通は、後のルネサンスの時代を準備することにもなった。また近東地方の優れた城郭を実地に見た諸侯たちは各地でそれに倣って改良した城郭を建てた[27]

11世紀以降盛んとなっていた地中海交易は、十字軍の輸送や補給、さらに西欧勢力がシリア・パレスチナといった地中海東岸の一角を抑えたことでより一層発展し、主な担い手であるヴェネツィア共和国ジェノヴァ共和国はこの時期に隆盛を迎えた。特にヴェネツィアは第4回十字軍を利用してザラやコンスタンティノープルを抑え、最盛期を迎えている[28]

東ローマ帝国は、1261年に復活したものの第4回十字軍によって受けた打撃から立ち直れずに衰退し、1453年の滅亡に至った(コンスタンティノープルの陥落)。

西欧においては、十字軍は西欧が初めて団結して共通の神聖な目標に取り組んだ「聖戦」であり、その輝かしいイメージの影響力は後日まで使われた。後の北方や東方の異民族・異教徒に対する戦争ほか、植民地戦争などキリスト教圏を拡大する戦いは十字軍になぞらえられた。また異国への遠征や大きな戦争の際には、それが苦難に満ちていても、意義ある戦いとして「十字軍」になぞらえられた。

西洋では17世紀以降、戦争を伴わない宗教的な運動をも「十字軍」と呼ぶようになり、以来さらに使われる範囲が拡大し、英米では@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}「正義の味方」と言う意味[要出典]の単語としてcrusadeと言う語を用いる。

現在では大きな目標を掲げた単なるキャンペーンのようなものも、「ゴミに対する十字軍」「文盲に対する十字軍」などのように「十字軍」に例えられている。「草刈り十字軍」は有名。もっとも、十字軍の歴史の見直しやイスラム教徒に対する配慮などから近年では社会運動の名称などに使用されることは少なくなっている。[要出典]

2001年アメリカ大規模テロ事件では、ブッシュ米大統領が「this crusade, this war on terrorism(これは十字軍だ、これはテロリズムとの戦争だ)」と発言し、イスラム教の反発を受け撤回した。しかし、ブッシュ政権によるアフガニスタン侵攻イラク侵攻を「第十次十字軍」と呼ぶ者[誰?]もあった。


北欧においては、近代スウェーデンフランス革命や、ロシア帝国によるポーランドに対する弾圧に対して欧州諸国に十字軍を呼びかけている。フランス革命においては、「反革命十字軍」と言われている。しかし19世紀に入ると最早、十字軍の名の使用は時代遅れとなっていた。[独自研究?]

ロシア帝国皇帝アレクサンドル1世も、オスマン帝国に対する十字軍を構想している。

ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世は十字軍や異端審問などについて公式に「異端に対する敵意を持ち、暴力を用いた。これらカトリック教会の名誉を汚した行いについて謹んで許しを求める。」として謝罪した。さらに、2001年には十字軍による虐殺があったことを正式に謝罪した。これはカトリック教会にとって、十字軍の評価に対する大きな転換であった。

十字軍の実態

十字軍はキリスト教圏の諸侯からなる大規模な連合軍であった。宗教的な情熱が強かったはずの第1回十字軍ですら、エデッサ伯国やアンティオキア公国などの領土の確立に走る者が出ており、第4回十字軍に至っては、キリスト教正教会国家である東ローマ帝国の首都コンスタンティノポリス(現イスタンブール)を攻め落としてラテン帝国を築くなど、動機の不純さを露呈している。のみならず、同じカトリックの国であるハンガリーまで攻撃し、教皇に破門宣告されている。


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