十和田湖
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この噴火は過去2000年間、日本国内で起きた最大規模の噴火であったと見られる[17]。この噴火を直接記録した文献記録は現地では見つかっていないとされている[17]。京都で著された『扶桑略記』には朝日に輝きがなく月のようだったという記録がある[8]

この噴火により大規模な火砕流(毛馬内火砕流)が生じ周囲20 kmを焼払った[17]。噴出物(主に火山灰)は東北地方一帯を広く覆い、甚大な被害をもたらしたと推定される。十和田火山の噴出物は通常偏西風に乗り十和田湖の東側に流れるが、この年の噴火では十和田湖の西側に流れている。これは夏のこの地方の気象現象であるやませが原因であると考えられている[18]。東の三本木原は昔の十和田火山の噴出物でできているが、やませのため西側に降下した噴出物はラハールとなって米代川を流れ下り、流域の人家を埋没させた。胡桃舘遺跡は、この折に埋没した住居の跡である。これら大災害を人々は三湖伝説として語り継いだと考えられている。一方で、噴出物により広大な砂地が形成された結果、人々の居住に適した環境が整い居住者の増加に影響を与えた[19]と考える研究者もいる。
常時観測火山

2016年12月1日より十和田は気象庁の常時観測火山に指定された[20]
湖と環境
水質

かつて十和田湖西岸には17世紀中頃に発見された鉛山鉱山と十輪田鉱山があり、亜鉛を産出していた。この廃鉱山からの流入水は現在も湖水の亜鉛含有量に影響を与えていると考えられる[21]
生物

十和田湖周辺は冷温帯林(ブナ林)や亜寒帯林(ダケカンバ林)が広がり、クマタカイヌワシツキノワグマといった野生動物や森林性の野鳥(シジュウカラゴジュウカラアカゲラコゲラなど)が生息する。水鳥(ホシハジロキンクロハジロホオジロガモカイツブリなど)も飛来する[22]

これら鳥獣の生息が重要であることから、国指定十和田鳥獣保護区(大規模生息地)に指定されている(面積37,674 ha、うち特別保護地区19,366 ha)。

2008年4月、同湖で死んだハクチョウ3羽と衰弱したハクチョウ1羽が見つかった。同月23日簡易検査で鳥インフルエンザと推定されたため、同月27日動物衛生研究所茨城県つくば市)で再検査したところ鳥インフルエンザウイルス強毒性のH5N1亜型が検出されたと秋田県環境省が同月28日に発表した。
生息魚介類

火山火口にできたカルデラ湖であるため、人間が魚の放流を開始する以前に生息していた魚介類サワガニのみと考えられている。従って、現在生息している魚類の全てが人為放流された物である[23]。記録に残る最初の放流は、1855年イワナとされている[23]。1960年代に行われた調査では、下記が確認されている。

魚類:ヒメマスニジマス、イワナ、サクラマスコイフナウナギカジカヨシノボリ、ワカサギ

サクラマスは奥入瀬川の銚子大滝に作られた魚道を通って天然魚が遡上して定着したが、「ヒメマスが捕食され繁殖を阻害する」との理由で魚道は破壊された。現在生息しているサクラマスは、その時に湖中に残された個体の子孫と考えられる[24]

ニジマスは、1900年と1919年に日光の中禅寺湖から移入された[23]

ウグイアユは定着に失敗した。


甲殻類:スジエビ、サワガニ

スジエビは、1905年に八郎潟から移植され定着した[25]

十和田湖湖畔の食堂のメニュー ヒメマスの塩焼き

ヒメマスなどは漁業釣りの対象となっている[26]
ヒメマス養殖

1903年に和井内貞行らによりヒメマスの最初の放流が行われた。十和田湖へのヒメマスの定着以降は、本州各地の湖への移植用卵及び稚魚の供給源として中禅寺湖とともに重要な位置を占めている。1960年或いは1967年の調査で、流入河川ではなく湖底に産卵床を形成し産卵していることが確認されている。また、1975年と1976年に行われた調査では「漁獲魚のほとんどが放流魚の可能性が高い」との結果が得られたが、1945年前後は放流が全くなかったにも拘わらず、相当量の産卵が行われていた時期もある[27]。湖畔の秋田県側の小坂町の生出(通称:和井内)地区には、ヒメマスの孵化場がある。
歴史
歴史

十和田湖にはマタギ(猟師)にまつわる伝説もあるほか、湖畔の中山半島にある十和田神社坂上田村麻呂が平安時代初期の大同2年(807年)に創建したとの説もある[28]

十和田神社は中世に山伏が修行し、江戸時代には南部藩の霊場となっていた[29]。それは、三湖伝説で語られる南祖坊(なんそのぼう)が、湖の主であった八郎太郎を追い出し、龍神に姿を変え湖の主として十和田湖に身を沈め青龍権現となったとされ、十和田湖はその青龍権現を祀る神仏習合の霊山として、近畿の熊野権現や関東の日光東照宮に比すべき北東北最大の山岳霊場であった[30]

近世以降は1665年(寛文5年)に鉛鉱、1719年(享保3年)には銀鉱が発見され十和田鉱山で知られるようになった(1897年廃坑)[8]

1807年(文化4年)菅江真澄は鹿角方面から鉛山峠を越え青龍権現を参拝し、人々の参拝の様子を『十曲湖』に記録した。1849年(嘉永2年)松浦武四郎北海道からの帰路、奥入瀬方面から青龍権現に参拝し、発荷峠を越え鹿角地方に抜けその記録を『鹿角日記』に記録した。

江戸時代は青龍権現への巡礼者は積雪期には里に戻っていた。1869年(明治2年)栗山新兵衛は十和田湖の休屋地区を初めて開拓をし通年で滞在した。彼以来、移住者が休屋や休平を開拓していった。

1872年(明治5年)に廃仏毀釈運動により、修験道は禁止され、霊山としての十和田湖は大打撃を受けた。十湾寺を十和田神社として青龍大権現を外に移して、祭神をヤマトタケルと申し立てたが認められず、1873年(明治6年)奥瀬の新羅神社に合祀され、御堂は取り壊された。2年後に復社が許され御堂の跡地にささやかな社殿が建てられたが、十和田信仰は大きな打撃を受けた[30]

1905年(明治38年)に和井内貞行ヒメマスの養魚事業を成功させた。さらに、彼は観光事業にも先鞭を着けた。

1908年(明治41年)に文人の大町桂月が初めて十和田湖を訪れ、1921年から1923年にかけて周辺を探勝し、その素晴らしさを紹介して以降は、風光明媚な観光地として知られるようになった[8][31]。観光に訪れる客の玄関口となった国鉄三沢駅(当時は古間木駅)には上流階級の使用を想定した貴賓室が設けられた[32]


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