十和田湖
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十和田湖への流入河川は銀山川、大川岱(おおかわたい)川、鉛山川、宇樽部(うたるべ)川、神田川などがある[10]

御倉山(溶岩ドーム)のある御倉半島と中山半島の間にある中湖(なかのうみ)とよばれる水域が最深部であり、御倉山の東側の東湖(ひがしのうみ)や中山半島の西側の西湖(にしのうみ)と呼ばれている水域の水深は50 - 100 m程度である。.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ウィキソースに県の境界にわたる市町の境界の確定の総務省告示の原文があります。衛星写真

なお、江戸時代よりの境界が不明確で、明治維新後も十和田湖面上の青森県と秋田県との境界は長らく決まっていなかった。2008年8月29日に青森市で開かれた北海道・北東北知事サミットにおいて、青森・秋田両県と沿岸の関係市町が、湖面の境界線を青森県6:秋田県4という割合で県境を画定することで最終合意した。同年11月14日に確定し、12月25日に官報で告示された。これにより、1871年廃藩置県以来、137年目にして県境が決定した。

具体的には、湖の北側にある御鼻部山の頂上から、西側の尾根に当たる桃ノ沢河口と87林班東端の中間点を直線で結び、南側は神田川河口を県境とする。これにより61.02km2の十和田湖は、青森県十和田市に36.61 km2、秋田県小坂町に24.41 km2が割り振られ、その分の地方交付税交付金(年間総額約6700万円)も増額分配される。なお増額分の交付金は、十和田湖の環境対策や観光振興に使われる[11]
「十和田火山」の噴火史十和田カルデラの地形図カルデラ壁

十和田湖は火山の山頂部に水がたまったカルデラ湖である。中世以降は噴火の記録が無いものの、「十和田火山」として防災行政の監視対象になっている[12]。大規模な噴火が将来起きた場合、火砕流岩手県北西部を含む最大30 km圏内に到達し、火山灰噴石はさらに広範囲に被害を与えるとのハザードマップが公表されている[13]

先十和田火山の活動が約160万年前?60万年前以前に見られる。約40万年の活動空白期を挟んで、十和田火山が約22万年前から活動を開始した。その活動ステージは22万年前?6.1万年前の先カルデラ期、6.1万年前?1.55万年前のカルデラ形成期、1.55万年前?現在の後カルデラ期に分けられる。

22万年前から6.1万年前の先カルデラ期は、安山岩の溶岩流や軽石・スコリアを噴出した。

約10万年前からマグマの噴出量が増加し、約6.1万年前の噴火エピソードQ(奥瀬火砕流, 4.76 DRE km3以上)から低頻度で、流紋岩の大規模な火砕流を伴うカルデラ形成期となった。この活動期のうち、約3.6万年前の噴火エピソードNと(大不動火砕流, 17.87 DRE km3)、約1.55万年前の噴火エピソードL(八戸火砕流, 20.34 DRE km3)は特に規模の大きな噴火で、大不動火砕流や八戸火砕流は現在の青森市街まで到達している[14]

噴火エピソードLから現在は後カルデラ期と定義されている。この後カルデラ期では、カルデラ形成期と比べると噴火の発生が高頻度で、1イベントの噴出量が数km3DRE以下の活動となっており、デイサイトプリニー式噴火溶岩ドーム形成が主となっている[15]

約1万年前に十和田カルデラの東南部で噴火によってカルデラ内部に五色岩(または五色台)火山が形成された[注釈 1]。五色岩火山は初期に玄武岩を噴出し山体を成長させた。その後、安山岩・デイサイトを経て流紋岩を噴出するようになった。それに伴い爆発的噴火が多発し火口を拡大していった。そして、約6200年前の噴火エピソードC(中掫軽石, 2.52 DRE km3)で火口壁が崩壊し第一カルデラの湖水が火口に流入した。これにより中湖ができたと考えられている。
有史以降

915年延喜15年)、大噴火(噴火エピソードA)を起こした。マグマ噴出量は2.1 DRE km3[16]火山爆発指数はVEI5。この際に御倉山溶岩ドームが形成された。この噴火は過去2000年間、日本国内で起きた最大規模の噴火であったと見られる[17]。この噴火を直接記録した文献記録は現地では見つかっていないとされている[17]。京都で著された『扶桑略記』には朝日に輝きがなく月のようだったという記録がある[8]

この噴火により大規模な火砕流(毛馬内火砕流)が生じ周囲20 kmを焼払った[17]。噴出物(主に火山灰)は東北地方一帯を広く覆い、甚大な被害をもたらしたと推定される。十和田火山の噴出物は通常偏西風に乗り十和田湖の東側に流れるが、この年の噴火では十和田湖の西側に流れている。これは夏のこの地方の気象現象であるやませが原因であると考えられている[18]。東の三本木原は昔の十和田火山の噴出物でできているが、やませのため西側に降下した噴出物はラハールとなって米代川を流れ下り、流域の人家を埋没させた。胡桃舘遺跡は、この折に埋没した住居の跡である。これら大災害を人々は三湖伝説として語り継いだと考えられている。一方で、噴出物により広大な砂地が形成された結果、人々の居住に適した環境が整い居住者の増加に影響を与えた[19]と考える研究者もいる。
常時観測火山

2016年12月1日より十和田は気象庁の常時観測火山に指定された[20]
湖と環境
水質

かつて十和田湖西岸には17世紀中頃に発見された鉛山鉱山と十輪田鉱山があり、亜鉛を産出していた。この廃鉱山からの流入水は現在も湖水の亜鉛含有量に影響を与えていると考えられる[21]
生物

十和田湖周辺は冷温帯林(ブナ林)や亜寒帯林(ダケカンバ林)が広がり、クマタカイヌワシツキノワグマといった野生動物や森林性の野鳥(シジュウカラゴジュウカラアカゲラコゲラなど)が生息する。水鳥(ホシハジロキンクロハジロホオジロガモカイツブリなど)も飛来する[22]

これら鳥獣の生息が重要であることから、国指定十和田鳥獣保護区(大規模生息地)に指定されている(面積37,674 ha、うち特別保護地区19,366 ha)。

2008年4月、同湖で死んだハクチョウ3羽と衰弱したハクチョウ1羽が見つかった。同月23日簡易検査で鳥インフルエンザと推定されたため、同月27日動物衛生研究所茨城県つくば市)で再検査したところ鳥インフルエンザウイルス強毒性のH5N1亜型が検出されたと秋田県環境省が同月28日に発表した。
生息魚介類

火山火口にできたカルデラ湖であるため、人間が魚の放流を開始する以前に生息していた魚介類サワガニのみと考えられている。従って、現在生息している魚類の全てが人為放流された物である[23]。記録に残る最初の放流は、1855年イワナとされている[23]。1960年代に行われた調査では、下記が確認されている。

魚類:ヒメマスニジマス、イワナ、サクラマスコイフナウナギカジカヨシノボリ、ワカサギ

サクラマスは奥入瀬川の銚子大滝に作られた魚道を通って天然魚が遡上して定着したが、「ヒメマスが捕食され繁殖を阻害する」との理由で魚道は破壊された。現在生息しているサクラマスは、その時に湖中に残された個体の子孫と考えられる[24]


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