十六大国
[Wikipedia|▼Menu]
そして、この時期のマガダ王の中でも特に名の知られているのは釈迦にまつわる説話でも登場するビンビサーラ王やアジャータシャトル王(阿闍王、あじゃせおう)であり、隣国アンガ国や、ヴァッジ国マッラ国カーシー国コーサラ国をはじめ北インド国家を支配下に入れ、ガンジス川中流域の覇権を掌握した(B.C.5C)。

続いてシシュナーガ(英語版)王によってシシュナーガ朝が建てられたが、この王朝も仏教系の文献などで非常に重要視される。その後もマガダ国は周辺の大小の国々を次々と征服、従属させていき紀元前4世紀に成立したナンダ朝、そしてその後を受けたマウリヤ朝アショーカ王(阿育王)の時代にはインド亜大陸のほぼ全域を支配するまでになった。


カーシー王国「カーシー国」も参照

ガンジス川中流に位置するワーラーナシー(ベナレス)を首都とし、釈迦より以前の時代には十六大国中最大の勢力を持った国であった。ワーラーナシーはガンジス川の水運の中心であり、バラモンが修行する宗教的な拠点でもあった。この国の王はその巨大な経済力と軍事力を持って一切の諸王の帝王(サッバラージューナム・アッガラージャ Sabbarajunam aggaraja)たることを目指した。

パータリプトラ(現パトナ)を首都とするマガダ国の王、ジャラーサンダの崩御に伴い独立、カーシャが建国。

紀元前の第一千年紀初期に台頭し始めたコーサラ国の王、カンサは、カーシー国のジャナパダを奪い取り、コーサラ国に併合した(カーシー・コーサラ)。紀元前6世紀末頃、マガダ国王ビンビサーラがコーサラ国王マハーコーサラの娘、コーサラ・デーヴィーと結婚した時に、新婦の持参金として、カーシーがビンビサーラに贈られた。息子アジャータシャトルの手でビンビサーラが殺害され、王妃コーサラ・デーヴィーも逝去すると、コーサラ国王プラセーナジットは、カーシー奪還の戦争を始めた。結局、コーサラ国王がカーシー奪還に成功し、マガダ国とカーシー国の間で和平協定が結ばれた。プラセンジットは、娘ヴァジュラ・デーヴィーをアジャータシャトルに嫁がせ、新婦の持参金として、再びカーシーを贈った。

このようにして、カーシー王国は独立した立場を失い、アジャータシャトルの治世が終わりに向かうと、カーシーはマガダ国に併合された。
コーサラ王国「コーサラ国」も参照

現代のウッタル・プラデーシュ州北東部に成立した。初期にはアヨーディヤーを首都とし、後にシュラーヴァスティー(舎衛城)に移った。

コーサラ国は十六大国の中でも最も有力な国の1つであり、マガダとガンジス川流域の覇権を争った。そしてそれ以上にコーサラの名は後世に多大な影響を与える思想・宗教の説話と偉大な文学の舞台として現代に伝えられている。

コーサラ国の勢力範囲には釈迦族(シャーキヤ族)が居住していた。そのためこの国は釈迦(ガウタマ・シッダールタ)に冠する仏教説話の主要な舞台である。釈迦はパセーナディ王とのやりとりの中で釈迦族をコーサラ国の住民であると語っている。当時の首都シュラーヴァスティーは釈迦が人生の多くを過ごした都市であり、祇園精舎に纏わる説話などこの都市を舞台にした仏教説話も多い。

もう1つ、この国を舞台にした文学作品としてインドの二大叙事詩の1つとして知られる『ラーマーヤナ』が上げられる。この物語はコーサラの王子ラーマの妻シーター羅刹の王ラーヴァナによってさらわれたためにラーマは彼を追ってスリランカまで行き、見事ラーヴァナを倒しシーターを救出、その後国に戻って即位するという話である。

現代インドでも良く知られた話であり、1992年にはラーマ生誕の地に立てられたモスクバーブリー・マスジド」を巡って1000人以上の死者が出る騒乱が発生したこともある。またラーマーヤナの中でコーサラ王家の祖とされるイクシュヴァーク王(Ikshvaku)はヴェーダ文献の中にその名が見える王である。(ただしイクシュヴァークを祖とする家系はコーサラ王家だけではない。)

なお、西暦4世紀頃にコーサラという名の国が再び建てられているが、この古代のコーサラ国との関係はよくわかっていない。区別するために4世紀頃成立した国を南コーサラ国と呼ぶ。
ヴァッジ国「ヴァッジ国」も参照

ガンジス川の北岸からネパールの丘陵地帯までの広い範囲に広がっていた国。

8部族の連合体として成立し、中でもヴィデーハ族、リッチャヴィ族(離車族)、ジニャートリカ族、ヴァッジ族の4つが有力であったが、他全てを圧倒しうる部族は存在しなかった。

王と言うような全体を統制する指導者は存在せず、集会によって国策が決定され、各部族毎に別の首都、別の集会を持っていた。こういった合議制の統治体制を持った国はガナ、サンガなどと呼ばれた。近現代の学者にしばしば共和国と呼ばれてきた。これはこの制度を伝えたギリシア人の学者がこれを共和制と呼んだことに由来するが、近年ではガナ・サンガ国という呼称が普及している。(詳細はガナ・サンガ国の項目を参照)

リッチャヴィ族についての情報が特によく知られ、サンターガーラと呼ばれる集会堂を中心とした彼らの政治体制は仏教徒の賞賛するところであった。リッチャヴィ族は自らをクシャトリアと規定していたが、彼らが元来のアーリア系住民なのか、アーリア化した現地人なのかについては論争がある。

この国はマガダ国が拡大期に入った際、最も頑強に抵抗した国の1つとして記憶されているが、最後はマガダ王アジャータシャトルの攻撃によって征服された。
マッラ国「マッラ国」も参照

ガンジス川の北岸に位置した国家。

マッラ国(末羅国)はクシナガラ(現在のカシア)とパーヴァーを拠点とした2勢力(クシナガラ・マッラ族、パーヴァー・マッラ族)によって形成された。ヴァッジ国と同じくガナ・サンガ国の1つと言われているが、マッラ国についての記録は非常に乏しい。

パーヴァー・マッラ族は新しく作った集会堂の最初の使用者として釈迦を招請したと伝えられる。また、クシナガラは釈迦が涅槃を決意した土地であり、釈迦の弟子アーナンダが派遣されていた。

リッチャヴィ族のヴァッジ国と対立していたが、マガダ国が膨張を始めるとヴァッジ国と同盟を結んでマガダ国に対抗したという説もあるが、最終的にマガダ国によって征服された。
チェーディ王国「チェーディ国」も参照


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:47 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef