十二夜
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

フェステは自分をイングランドの道徳劇に出てくる「昔のヴァイス(悪徳)役」になぞらえてしめくくる[20]。イングランドの民俗的伝統の影響はフェステの歌や台詞にも見受けられ、第5幕の最後の歌などがその例である[21]。歌の最後の歌詞は、イングランドの伝統的な出し物の台詞を直接反映するものとなっている[22]
初演と執筆時期

ジョン・マニンガム (John Manningham) はミドル・テンプルで法律を学ぶ学生であったが、1602年2月2日のキャンドルマスの日に『十二夜』がミドル・テンプルで上演され、学生が招かれたと日記に記録している[23]。これが記録に残る最初の上演であり、これ以降にこの芝居が執筆されたということはあり得ない。出版は1623年のファースト・フォリオに入るまで行われなかった。

従来この劇の初演は、1601年1月6日にエリザベス1世の宮廷で行われたと言われていた。これはシェイクスピア学者のレズリー・ホットソンが『「十二夜」の第一夜』(The First Night of 'Twelfth Night', 1954年)で唱えた説で、十二夜のその日その場所でシェイクスピアの劇団が劇を上演した記録があることと、その時の主賓が登場人物と同名のイタリア貴族オーシーノ公爵だったことを根拠にしている。しかしこの説は、公爵が自分と同名の登場人物が道化にからかわれるのを見て喜んだか、また公爵訪英の知らせが入ったのが12月25日のことで、いくらシェイクスピアでもこれほどの短期間で新作を仕上げるのは難しいのではないか、という疑問がある。

執筆年代について確実に言えるのは、前述したように1602年の初めには上演できる状態であったということと、どれほど早くとも1599年以後に書かれたということ程度である。それは同年に出版されたエドワード・ライト (Edward Wright) のイギリス初の世界地図への言及が第3幕第3場のマライアの台詞にあることからわかる。デイヴィッド・ビーヴィントン (David Bevington) は1599年の執筆の可能性を示唆している。さらに英文学者の河合祥一郎は、シェイクスピアの作品をパロディ化している作者不明の『気をつけろ』(Look About You, 1599年から1600年執筆、1600年出版)が『十二夜』の真似もしていることから、それ以前であること、つまり1599年1600年だという[24]。しかし1601年説も根強い。年代について確定的なことを言うのは困難である[25]
テクスト

本作の正式なタイトルは Twelfth Night, or What You Will である。芝居に副題をつけることはエリザベス朝の流行であるが、『ヴェニスの商人』 (The Merchant of Venice) の別題『ヴェニスのユダヤ人』 (The Jew of Venice) を副題として扱う場合があることを除けば、『十二夜』はシェイクスピア劇で唯一、出版時に副題がつけられた作品である[11]

『十二夜』の古い版本はファースト・フォリオのみで異本はないが、このテクストは以下のような問題を孕んでいる。初演から出版まで20年ほど経過していることから、初演時の台本ではなく、上演を重ねていくうちに改修が行われた台本を底本として用いたためと思われる[26]

オーシーノ公爵が途中から伯爵と呼ばれている。

「私、歌が歌える」といっていたヴァイオラが歌を歌わない。

マライアがマルヴォーリオいじめを計画する時、サー・トビーとサー・アンドルーと阿呆の3人にマルヴォーリオを隠れ見るように言っているのに、実際には阿呆ではなくフェイビアンなる人物がでてくる[27]

上演史
シェイクスピアの時代

初演と執筆年代の節で述べたように、最初の記録に残っている上演は1602年2月2日にミドル・テンプルで行われた上演である。この上演のことを日記に記録したジョン・マニンガムは、明らかにマルヴォーリオのプロットを一番楽しかったと評価しており、さらにシェイクスピアが前に執筆した芝居である『間違いの喜劇』との共通点を指摘し、材減のひとつである『インガンニ』との関係にも触れている[28]

初演はもっと早い時期であったかもしれない。初演と執筆年代で述べたレスリー・ホットソンなどの主張が正しければ、ホワイトホール宮殿で1601年1月6日の十二夜の祝宴で本作が上演された可能性もある[29]。『十二夜』は1618年4月8日のイースターマンデイに宮廷で上演され、1623年のキャンドルマスにも上演されている。
王政復古から19世紀までウィリアム・ハミルトンによる『十二夜』の一場面の絵、1797年頃

『十二夜』はイングランド王政復古にあたって最初期に再上演された演目のひとつである。サー・ウィリアム・ダヴェナントは1661年にこの戯曲を翻案しており、トマス・ベタートンをサー・トービー・ベルチの役で起用した。サミュエル・ピープスはこのバージョンを「馬鹿な芝居」だと考えたが、それでも1661年9月11日、1663年1月6日、1669年1月20日に観劇している。別の翻案である Love Betray'd, or, The Agreeable Disappointment が1703年にリンカーンズ・イン・フィールズで上演されている[5]

17世紀から18世紀初めまでは翻案ばかり上演されていたが、シェイクスピアの原作版『十二夜』が1741年にドルリー・レイン劇場で再演された。1820年にはフレデリック・レイノルズがオペラ版を上演し、音楽はヘンリー・ビショップが担当した。
20世紀から21世紀

1912年にハーリィ・グランヴィル=バーカーが非常に影響力のある上演を行い、1916年にはオールド・ヴィック・シアターで『十二夜』が上演された。イェール大学演劇協会による1921年の『十二夜』上演ポスター

リリアン・ベイリスは長期間休館していたサドラーズ・ウェルズ劇場を再開し、1931年にラルフ・リチャードソンがサー・トービー役、ジョン・ギールグッドがマルヴォーリオ役で『十二夜』を上演した。オールド・ヴィック・シアターは1941年にロンドン大空襲で深刻な被害を被り、1950年に再開したが、その際にペギー・アシュクロフトをヴァイオラ役に起用して『十二夜』を上演した。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:82 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef