十一月蜂起
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蜂起はいくつかの地域で成功を収めたものの、結局は数の上で圧倒的に優位なイヴァン・パスケヴィチ将軍率いるロシア軍に鎮圧された。
蜂起以前のポーランド

ポーランド分割後、ポーランド・リトアニア共和国は独立を喪失して国家としての実体を失った。しかし、ナポレオン戦争ロシアおよびオーストリアに対するポーランド分割期の諸戦争の結果、その旧領の一部にはワルシャワ公国が建国された。ところがこの新国家もウィーン会議の決議によって消滅し、再びロシア、プロイセン、ハプスブルク帝国によって分割された。オーストリア・ハンガリーは旧共和国の南端部の一部を併合し、プロイセンは西部を奪って半自治的なポズナン大公国を創設し、分割において指導的な役割を果たしたロシアは旧領の残る大部分に半自治的なポーランド立憲王国をおいてこれを支配した。

まもなく、立憲王国はかなり大幅な自治権を有するようになり、ロシアの支配にも間接的に従属するだけだった。ロシアと立憲王国は人的同君連合であり、ロシア皇帝がポーランド王を兼ね、ポーランド国家は独自のセイム(国家議会)と政府を有し、裁判所、軍隊、国家財政の面でも独立していた。しかし立憲王国に与えられていた自由は徐々に削減され、憲法は次第にロシア当局から無視されるようになった。アレクサンドル1世は正式にポーランド王として戴冠することはなかった。その代わり、皇帝は憲法に違反して弟のコンスタンチン・パヴロヴィチ大公を総督に任命した。

ウィーン会議での決議が調印されて間もなく、ロシアはこの決議を尊重しなくなった。1819年、アレクサンドル1世は立憲王国における出版の自由を取り上げ、検閲を導入した。ニコライ・ノヴォシリツェフ伯爵に率いられたロシア秘密警察は、ポーランド地下組織への迫害を開始し、1821年には勅令によってフリーメイソンが禁止された。(チャルトリスキ家の人々をはじめとするポーランドのフリーメイソンは啓蒙主義の時代にヨーロッパ初の民主主義成文憲法である「1791年憲法」(5月3日憲法)を制定した政治運動の中心的存在で、ポーランド分割後もポーランド国内の自治拡大および民主化のための運動を主導していた)。1825年、セイムの議事進行は非公開となった。

同君連合を支持する大多数のポーランド人政治家の抗議にもかかわらず、コンスタンチン大公は当時のヨーロッパで最も進歩的だったポーランド憲法を遵守することなく政治を運営した。大公はポーランド人の社会組織や愛国者組織、カリシュ派の自由主義的な反体制運動を迫害し、重要な行政官職をポーランド人から奪ってロシア人に与えた。ポーランド人ヨアンナ・グルジンスカと結婚していたにもかかわらず、大公は一般的にすべてのポーランド市民(注:ポーランドは多民族の市民の連合社会)および多文化民主主義の敵と見なされていた。さらに、コンスタンチンがポーランド軍の司令官だったことは、士官学校内で深刻な対立を引き起こした。こうした不和のため、立憲王国中で軍隊を初めとして様々な陰謀が計画されることになった。
発端

軍事衝突の始まりは、ピョトル・ヴィソツキに指導された若い士官学校の生徒たちが陰謀を計画し、1830年11月29日に武装してコンスタンチン大公の居所であるベルヴェデル宮殿を襲った事件だった。ワルシャワに蜂起を広げたのは、ポーランド軍を動員してフランスの7月革命ベルギー革命を鎮圧しようというロシアの計画が、明確にポーランド憲法に違反していることだった。反乱者はベルヴェデルになだれ込んだが、大公は女装して宮殿を脱出した。反乱者は市の中心にある武器庫に向かい、小競り合いの後でこれを占拠した。翌日、武装したポーランド市民がロシア軍をワルシャワの北方へと撤退させた。この事件はワルシャワ蜂起ないし11月の夜(Noc listopadowa)と呼ばれている。
蜂起

11月29日夜の事件は瞬く間に広まり、驚きをもって迎えられた。ポーランド政府(行政評議会)が直ちに召集され、この事態を統制するための方策と今後の一連の行動について協議した。不人気な閣僚は更迭され、元ロシア外務大臣のアダム・イェジ・チャルトリスキ公、歴史家のユリアン・ウルシン・ニェムツェヴィチ、ユゼフ・フウォピツキ将軍のような人物が新たに政府に参画した。チャルトリスキ公を中心とする皇帝忠誠派は、すぐにコンスタンチン大公と交渉を開始し、事態を平和裏に解決しようとした。しかしチャルトリスキがコンスタンチンは攻撃者を赦すつもりであり、事件を穏健な形で収拾する気でいると告げると、マウリツィ・モフナツキらの急進派は憤激して和解を拒み、国民蜂起を開始することを要求した。ロシアとのいきなりの交戦を恐れた政府は、コンスタンチンとロシア軍を引き離すことに同意した。

モフナツキは新しく任命された閣僚たちを信用しておらず、政府の中身を自らの組織した愛国協会の人々に変えようとした。12月3日にワルシャワで大々的な示威行動が行われ、モフナツキは政府と市外で野営していたコンスタンチン大公を公然と非難した。モフナツキは戦争による荒廃を免れさせ、ポーランド本国の食糧供給を確保するため、リトアニアでの軍事遠征を主張した。彼ら愛国協会は政府(行政評議会)に多くの要求を突きつけた。その中の主な項目には、革命政府の樹立とコンスタンチンが率いるロシア軍部隊に対する即時攻撃などがあった。ヴィンツェンティ・クラシンスキ伯爵とジグムント・クルナトフスキ伯爵の2人を除くほぼ全ての将軍が、ポーランド軍を率いて蜂起に参加した。

蜂起以前の内閣から残る4人の閣僚が行政評議会から追い出され、モフナツキおよび彼を支持するヨアヒム・レレヴェルら愛国協会の3人のメンバーが後釜に座った。新しい政府は「臨時政府」と呼ばれた。この一連の行動を正当化するため、臨時政府はセイムを招集し、1830年12月5日、セイムはフウォピツキを「蜂起における独裁官」であると宣言した。フウォピツキ本人はこの蜂起を狂気の沙汰だと考えていたが、強い圧力に屈伏してしばらくの間軍隊を率いることに同意した。しかし、心中では密かにポーランド軍の敗北を望んでいた。彼は多くの勲章を持つ歴戦の勇将だったが、コンスタンチン大公にいいように騙されて退役していた。フウォピツキはロシア帝国の力を過大評価しており、ポーランド革命運動の熱狂的な力を過小評価し過ぎていた。その気質と信念からフウォピツキはロシアとの戦争に勝てるとは思えず、この戦争に反対していた。彼は国内平和の維持と憲法護持だけを望んで独裁官職を引き受けた。

ポーランド人は皇帝ニコライ1世が兄コンスタンチン大公の窮地に気付いていないと信じ切っており、蜂起はロシア当局が憲法の遵守を認めることで沈静化するかも知れないため、フウォピツキはまず最初にフランチシェク・クサヴェリ・ドルツキ=ルベツキ公をサンクトペテルブルクに派遣して交渉を行わせた。フウォピツキはポーランド軍の強化を控え、軍事攻撃によってロシア軍をリトアニアから撤退させるべきだとする意見をしりぞけた。しかしワルシャワの急進派は戦争とポーランドの完全な自由を要求していた。12月13日、セイムはついにロシアに対する「市民蜂起」を宣言し、1831年1月7日にドルツキ=ルベツキ公が何の譲歩も得られないまま帰国した。ツァーリはポーランドの完全かつ無条件の降伏を要求し、「ポーランド人は皇帝の御慈悲に従うべきである」との宣言が出された。しかし皇帝の意図は、フウォピツキがその翌日に独裁官を辞任したことで挫折した。

ポーランドの政治権力は今やヨアヒム・レレヴェルに率いられる愛国協会に集まった急進改革派たちの手に渡った。


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