十・十空襲
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先発のハルゼー大将の旗艦「ニュージャージー」と第38.3任務群(指揮官:フレデリック・C・シャーマン少将)やアドミラルティ諸島から来航した第38.1任務群(指揮官:ジョン・S・マケイン・シニア中将)、ペリリュー島の戦いを支援していた第38.4任務群(指揮官:ラルフ・E・デヴィソン少将)と洋上で合流し、正規空母9隻・軽空母8隻を基幹とする大部隊となった。艦隊は8日に洋上給油をした後に、沖縄へと向かった[5]。このほか、脱出パイロットの救助に備えて、潜水艦が沖縄近海に待機した。

アメリカ艦隊は、陽動のために第30.2任務群(指揮官:アラン・E・スミス少将)の重巡洋艦チェスター」「ペンサコラ」「ソルトレイクシティ」と駆逐艦6隻を分遣して、9日に南鳥島へ艦砲射撃を加えた[6]。また、第38任務部隊の前路哨戒のためにサイパン島から出撃したPB4Y爆撃機が、沖縄沖で特設駆潜艇「三峡丸」を撃破している[7]

日本海軍は、通信解析やパラオ基地の監視情報からアメリカ艦隊の集結と出動を察知したが、その目的地を確定することはできなかった。沖縄には台風が接近中で、7日には大東島で秒速42mの暴風が観測される悪天候となっており、哨戒機の活動は制限された。かろうじて飛び立った二式飛行艇も、テニアン島から発進したB-24爆撃機により報告の間もなく撃墜されて行方不明となってしまった[5]連合艦隊司令部では、ルソン島方面の護送船団が襲われる可能性が高いと判断しており、豊田副武連合艦隊司令長官はフィリピンの視察へ出掛けてしまった[8]。それでも、南西諸島を管轄する佐世保鎮守府は、10日明け方の空襲を予想して被害極限に留意するよう9日夜に発令した[4]

日本海軍から「台湾東方に敵機動部隊」との連絡を受けた陸軍の第32軍司令部も、8日には防空態勢である丙号戦備を命じたが、翌9日には続報が無く海軍情報は疑わしいと隷下部隊に通報してしまった[4]。10日から予定の図上演習もそのままとされ、参加指揮官が各地から那覇へ集められた。陸軍船舶兵の小型輸送船には急速揚陸と退避を命じたものの、強風のため那覇港に戻るよう命令が変更された[4]。第8飛行師団では、9日12時に警戒態勢を2号警戒配備に引き上げている[4]
10日の空襲

9日夜、アメリカ艦隊は、発見されることなく沖縄近海に接近した。10日午前6時前、アメリカ艦隊は沖縄本島に向けて最初の攻撃隊を出動させた。午前6時45分、第1次攻撃隊は日本軍の北飛行場に到達し、攻撃を開始した。小禄飛行場なども次々と攻撃を受けた。アメリカ艦隊は、その後も第4次攻撃隊までを午前中に発進させ、午後にも第5次攻撃隊を繰り出した。宮古島など他の島への攻撃を合わせると、10日の出撃機数は延べ1396機に達した[6]

日本軍は、午前6時20分に海軍の警戒レーダーで第1次攻撃隊の接近を探知していたが、当時の日本のレーダーは精度が低く、報告は信頼されなかった[9]。また、民間人や警察官による防空監視隊の報告も無視された[10]

まず、アメリカ軍機は制空権奪取のため飛行場を攻撃目標とした[11]。日本の航空部隊は、空中退避が間に合わないまま、多くが地上撃破された。独立飛行第23中隊は離陸に成功したものの、第2次攻撃隊と交戦して6機が撃墜され、3機が不時着大破など計10機を失った[10]沈没寸前の潜水母艦「迅鯨」。同艦は9月に潜水艦の攻撃で損傷し、航行不能状態であったところを撃沈された。

第2次以降は、那覇港運天港などに停泊中の艦船も攻撃目標となり、疎開輸送に活躍していた潜水母艦迅鯨」や満州国海上警察隊の「海威」(元駆逐艦)など比較的大型の艦艇から、魚雷艇カロ艇甲標的のような小型戦闘艇まで次々と撃沈された。徴用された汽船はもちろん、作業用の門橋や、沿岸を航行中の漁船までも機銃掃射などにより徹底的に攻撃された。輸送船の被害は比較的大型の汽船が那覇港で5隻と瀬底島錨地で2隻だったほか、小型船が膨大な数に上った[12]

第2次空襲の際に港湾地区の民家で火災が発生し、軍や警防団、学徒などの消火活動にもかかわらず延焼した。第4次と第5次の空襲は主に市街地を狙って行われ、市内各所に火災が発生した。第4次空襲の段階で民間消火活動では手の施しようがなくなり、住民は全面退避を開始した。県は軍に破壊消火を依頼したが、それでも延焼を阻止できず、火災は那覇の市街地全域に拡大した[11]。一方、嘉手納町では民間施設は直接の攻撃目標にはならず、軍施設周辺で巻き添え被害があっただけであった[13]

本島以外の沖縄諸島各地にも攻撃は向けられた。慶良間諸島には8回にわたり延べ60機(日本側記録)が飛来し、主に漁船を狙った機銃掃射を行った[14]宮古島では午前と午後に1回ずつ各16機(日本側記録)による空襲があり、九九式襲撃機3機など陸軍機9機破壊[15]、陸軍徴用輸送船「廣田丸」(栃木汽船:2211総トン[16])撃沈、民家13軒半焼などの被害が出た[17]石垣島には8機が早朝に飛来した[14]久米島西方で沈んだ陸軍徴用輸送船「江龍丸」(名村汽船:2,170総トン[16])は、第32軍の記録によると空襲および潜水艦の攻撃で沈没となっているが[12]、アメリカ側の公式記録では空母機の戦果となっている[18]。大東島地区には午後になって延べ8機(日本側記録)が飛来し、飛行場や海軍船を銃爆撃した[14]。大東島へ航行中の海軍徴用小型船2隻が沈んだほか[注 1]、沖大東島付近で特設駆潜艇「第一拓南丸」(日本海洋漁業統制:343総トン)が炎上擱座している[18][19]

攻撃は沖縄諸島にとどまらず、鹿児島県奄美群島にも及んでいる。奄美大島では10日早朝から3回・延べ45機以上が来襲して、付近の船舶や砲台を銃爆撃[14]徳之島では、午前8時頃に近海の機帆船が銃撃され、午後には飛行場が攻撃を受けて、一式戦闘機3機・四式戦闘機1機・九九式襲撃機5機など陸軍機14機が破壊された[14][15]
11日以降の戦闘「台湾沖航空戦」も参照

日本海軍はアメリカ艦隊への反撃を計画し、捷号作戦警戒を指示した。九州や台湾の基地から、翌11日朝までに延べ40機余りの索敵機が発進した。11日正午までに2群のアメリカ艦隊を発見したものの、距離が遠かったために攻撃は断念された[20]

アメリカ艦隊は、沖縄本島への空襲を10日のみで終え、11日に洋上補給を行った後に台湾方面へ向かった。


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