北里柴三郎
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翌年の1890年(明治23年)には破傷風菌抗毒素を発見し、世界の医学界を驚嘆させた。さらに「血清療法」という、菌体を少量ずつ動物に注射しながら血清中に抗体を生み出す画期的な手法を開発した。

1890年(明治23年)には血清療法をジフテリアに応用し、同僚であったベーリングと連名で「動物におけるジフテリア免疫と破傷風免疫の成立について」という論文を発表した。第1回ノーベル生理学・医学賞の候補に「北里柴三郎」の名前が挙がったが、結果は抗毒素という研究内容を主導していた柴三郎でなく、共同研究者のベーリングのみが受賞した。柴三郎が受賞できなかったのは、ベーリングが単独名でジフテリアについての論文を別に発表していたこと、ノーベル委員会や(選考にあたった)カロリンスカ研究所が柴三郎は実験事実を提供しただけで免疫血清療法のアイディアはベーリング単独で創出したとみなしたこと[注 2]、賞創設直後の選考でのちのような共同授賞の考え方がまだなかったことなどが要因として挙げられている[12]。柴三郎に対する人種差別を理由とする明確な証拠は見つかっていない[注 3][12]

論文がきっかけで北里柴三郎は欧米各国の研究所、大学から招聘の依頼を数多く受けるが、国費留学の目的は日本の脆弱な医療体制の改善と伝染病の脅威から国家国民を救うことであるとして、柴三郎はこれらを固辞し、1892年(明治25年)に日本に帰国した。
帰国後

北里柴三郎はドイツ滞在中に、脚気の病原菌の発見を発表した緒方正規に対し、実験手法の不備を指摘し病原菌発見を否定した。先述の通り緒方は北里の上司だったことがあり、東京大学総長加藤弘之から「師弟の道を解せざる者」と激しい非難を浴びた。森林太郎(森鴎外)からは「識ヲ重ンセントスル余リニ果テハ情ヲ忘レシノミ」と評され、北里は「情を忘れたるものに非ず。私情を制したるものなり」と反論した[13]。緒方とも私生活では良好な関係を保ったものの、これにより母校の東大医学部とは対立することになってしまう。当時の日本では東大以外に伝染病研究ができる場所はなく、東大を敵に回すことは柴三郎自身の日本での研究者生命を危うくすることを意味した。

福澤諭吉は、北里が海外で大きな快挙を成し遂げたのにそれに相応しい研究環境が用意されないことを深く憂いて、全面協力と多大な資金援助を行い、1892年(明治25年)10月に「私立伝染病研究所」を現在の芝公園内に設立、北里をその初代所長とした。この時、福澤諭吉57歳、北里柴三郎40歳である。同年11月には、伝染病研究所は大日本私立衛生会(副会頭は長与専斎、この長与と福沢は適塾では同じ塾生の間柄)の所属となり、年間3600円の財政支援を受けた。

1893年(明治26年)、伝染病研究所が手狭になったので、東京府知事より払い下げられた芝区愛宕町の内務省の用地に移転を計画した。しかし、移転先の地域に住む近隣住民たちや東大初代総長である渡辺洪基らの妨害にあった。彼らは、移転の反対運動を起こし、北里のやっている研究がひどく危険で人体に有害なものであることを声高に叫んだ。そこで、福沢は移転予定地の近くに次男の捨次郎の住居を新築して住まわせた。そして、福澤は「北里の研究は安全です。私の次男が近くに住んでいます。近隣住民の心配はご無用です」と言って、反対運動を静めた。このように、福沢は北里の研究をいつも外野から後方支援した。

帝国議会では衆議院議員の長谷川泰らが中心となり、180人の議員連名で、国が北里の伝染病研究所を財政支援すべきだ、とする声が上がり、国は補助金を伝染病研究所に出して支援し、同所の運営はようやく軌道に乗った。

1894年(明治27年)、北里柴三郎はペストの蔓延していた香港に政府・内務省から調査研究するように派遣され、病原菌であるペスト菌を発見するという大きな業績を上げた[14]。同じ頃、東大も青山胤通を派遣するが、青山は不運にもペストにかかってしまった。この時、東京大学派に属し青山と親交のあった森林太郎[注 4]は、北里の発見したペスト菌がニセモノであると「鴎外全集?北里と中浜と?」(第三十三巻)の中で批判している。内務省より発令された東京痘苗製造所長への辞令(明治32年)
東大医科研・近代医科学記念館

1899年(明治32年)、「私立伝染病研究所」は、国から寄付を受けて内務省管轄の「国立伝染病研究所」となり、北里は伝染病予防と細菌学に取り組むことになった。

その後、伝染病研究所は研究員が増え、業務範囲も増えて芝区愛宕町の建物では手狭になったので、1902年(明治35年)、東京の白金台に2万坪の土地を購入し、1906年(明治39年)11月、伝染病研究所、血清薬院、痘苗製造所の3機関の入る国立伝染病研究所(現・東京大学医科学研究所)の建物が新たに完成した。「伝染病研究ノ基礎ヲ確立スルニ付テノ意見」(大正2年)
東大医科研・近代医科学記念館

北里柴三郎はかねがね伝染病研究は衛生行政と表裏一体であるべきとの信念のもと、内務省所管ということで研究にあたっていたが、1914年(大正3年)、政府は所長の北里柴三郎に一切の相談もなく、伝染病研究所の所管を突如、文部省に移管し、東大の下部組織にするという方針を発表した。これには長年の東大の教授陣と北里柴三郎との個人的な確執が背景にあると言われている。しかも、その伝染病研究所は青山胤通(東京帝国大学医科大学校長)が所長を兼任することになるが、北里はこの決定に猛反発し、その時もまだ東大と反目していた為、すぐに所長を辞任した。そして、新たに私費を投じて「私立北里研究所」(現・学校法人北里研究所北里大学の母体)を設立した。そこで新たに、狂犬病インフルエンザ赤痢発疹チフスなどの血清開発に取り組んだ。「伝染病研究所」の外観を模した近代医科学記念館(東京大学医科学研究所

福沢諭吉没後の1917年(大正6年)、慶應義塾医学所が廃校になってから37年後、慶應義塾は国から医学科設置を許可され、「慶應義塾大学部医学科」が誕生した。北里柴三郎は福沢による長年の多大なる恩義に報いるため、学長[15][注 5]に自ら進んで就任した。新設の医学科の教授陣のメンバーにはハブの血清療法で有名な北島多一(第2代慶應医学部長、第2代日本医師会会長)や、赤痢菌を発見した志賀潔など北里研究所の名だたるスター研究者を惜しげもなく送り込み、柴三郎は終生無給で慶應義塾大学医学部(1920年、大学令により昇格)の発展に尽力した。


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