北白川
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^ 標高130m程度。将軍山、地域では丸山とも。北白川幼稚園が設けられているほか、2010年11月頃まで将軍地蔵安置されていた場所でもある。
^ 北白川山の一部がすべり山と呼ばれる[要出典](2010年6月現在、北白川幼稚園のホームページに記述が有る)、現在の瓜生山は元々は丸山である(『新撰京都名所圖會』)、かつては北白川地域の山々の総称として白川山という名称が使われていた(『雍州府志』のほか、『古今都細見之図』、『京都指掌図 文久改正』などの古地図で確認可能)、など、地域の山々の呼称は複雑である。将軍地蔵の移設がこの混乱の大きな原因といわれる。上記のほか『東山三十六峰を歩く』によれば、現地住民でさえも山名に対して混乱が見られ、また、各種文献に当たっても判然としない場合がある。
^ 『新撰京都名所圖會』によれば、茶山の由来は「茶屋四郎次郎」という豪商の別荘が有ったことから。彼の本名が「中島情延」であることから、情延山とも呼ぶ。元々は織田信長とその家臣に受け継がれていた地域である。すでにこの一体が茶山と呼ばれていたことは現地住民の間でも忘れ去られつつあり、茶山といえば(かなり距離のある)叡山電鉄茶山駅の辺りを指すとの意識が強いという。また近辺には「滅苦寺跡」の石碑が、麓にある禅法寺の境内には「茶山」の文字の確認できる石碑がある(『東山三十六峰を歩く』 p.63 -)。
^ ただし、五山送り火の運営・作業は北白川(かつての白川村)ではなく、浄土寺(かつての浄土寺村)が受け持っている。また、如意ヶ嶽と大文字山は明治以降、正式には別の山であるが、『こども風土記』によれば、現地住民は同一視する場合がある。古くは正式には如意ヶ嶽(もしくは如意嶽、如意ヶ岳、如意山)であり、大文字山は通称であった。また、古くはこの近辺の山々を総じて如意ヶ嶽と呼んだ(『雍州府志』によれば、東山の頂を如意ヶ嶽と呼んだとある)。かつては如意寺と呼ばれる寺も存在したと伝えられる。なお、如意ヶ嶽の山頂はかなり滋賀県寄りであり、京都市内から視認することはできない(『東山三十六峰を歩く』 p.86)。また、東山三十六峰では如意ヶ嶽と大文字山は区別されていないが、そもそも東山三十六峰の定義自体が不確かなものである点に注意を要す(『東山三十六峰を歩く』 p.20)。
^ ちなみに『こども風土記』によれば、1955年(昭和30年)の国勢調査では、3426世帯、12962人。『北白川百年の変遷』によれば、1970年(昭和45年)で6224世帯、14452人。
^ 345戸中、専業農家はわずか15戸と、農業の比率は高くない。また、1888年(明治21年)の愛宕郡白川村役場調べでは、305戸1488人中、農業70戸、工業74戸(内、石工66戸)、商業40戸、雑業108戸(主に労働者)、その他5戸、不就業8戸となっている。この資料では専業・兼業の扱いは不明である。
^ 1907年に鐘紡の子会社が白川村小倉地区の土地を取得したが不況により施設の建設は行われず、1925年に日本土地商事株式会社により開発・分譲が開始されたのが、北白川の住宅地開発の嚆矢となった。その後暫時開発は進み、1940年には京都市による区画整理がなされる(『京・まちづくり史』 pp.191-195)。
^ 『北白川と嵯峨野』では、あるアパートでは戦前までは学生が入居者の大部分を占めていたが、戦後は大部分がサラリーマンになったとの証言が紹介されている。
^ 『京都盆地の災害地名』によれば、近年では1941年6月に氾濫し下流に隣接する浄土寺町石橋町で決壊、1959年8月水害では東西は白川通以西から叡電沿線、南北は北大路通から御影通までが浸水。1967年7月には台風7号と梅雨前線の影響で丸山町で山崩れ。
^ 流れ橋の橋脚のように、堰堤の基本構造自体に致命的な損傷を被らないための策。
^ ちなみに、水車による伸銅産業の排水による公害で、白川に棲む生物が激減したとの説が、『こども風土記』 p.219で述べられているが、『120周年記念誌』 p.15によれば、最後の水車が廃止されてから30年近く経った1994年(平成6年)に至っても、やはり魚などはほとんど見られないようである。この部分を執筆した氏子会会長は、後述するラジウムが影響している可能性を示している。
^ 『東北歴覧之記』では1681年延宝9年/天和元年)の時点で「何れを白河の瀑と云えることを知れず」と、場所が分からなくなっている(1686年貞享3年)の『雍州府志』も同様である。なお、現代文訳はウィキペディア編集者による)。
^ 『新撰京都名所圖會 巻1 東山の部』 p.141によれば、寛政年間の作であり、高さ1.8メートル程度、かたわらには大日如来を従えている。
^ 泉質としては20度の放射能泉で、無味、無臭、無色。神経痛、筋肉痛、関節痛、胃腸病、腰痛、貧血などに効果があるとされている。
^ ただし、路線は今出川通以南までであり、駅は地域の南端のみである。詳しくは京都市電#路線データの図を参照。
^ 『東北歴覧之記』(1681年(延宝9年/天和元年))では、古くは志賀の山越、現在は山中越という、とされている。『中古京師内外地図』 ⇒[1]でその記述を確認できる。
^ 1575年天正3年)『史料京都の歴史 8』 p.310より
^ 3系統は御蔭通を通る便と、一つ北の東鞍馬口通を大回りし、京都造形芸術大学にアクセスできる便が存在する。また、仕伏町の志賀越道と御蔭通の交差点で終点、Uターンして折り返し運転となっている。
^ 京都駅前 - 出町柳 - 銀閣寺道 - 比叡山頂
^ 三条京阪 - 百万遍 - 銀閣寺道 - 北白川仕伏町 - 比叡平
^ 血痕を模した意匠とされる。すでに怪我をしているので、これ以上の危険はご容赦ください、の意。
^ 『京都民俗誌』によれば、頭より高く掲げることで、お上に渡す花に自らの息をかけない、表敬の意も有った。
^ 『京都故事物語』によれば、白川女の装束もこの当時のものを受け継いでいるかたちであるという。
^ 『北白川と嵯峨野』によれば、山向こうに当たる滋賀県でも、白川女に卸すために菊などの栽培がなされていた。ちなみに、p.61には、菊と小菊が合計5万本で、全出荷量の7割とされている。このことから、全出荷量は7万本程度と推察されるが、いずれにしても1965年(昭和40年)の資料である。他には菜種、クラジオラス、ナデシコなど、様々な花を取り扱っていた(pp.61-64)
^ ただし花畑ばかりというわけではなく、北白川には水田も多数存在していたほか、牧場なども見られている。
^ 原文からの現代文訳はウィキペディア編集者による。
^ ちなみに、現在地に移転するまでの2つの跡地は、いずれも白川の河畔という立地である。
^ ピークは1958年(昭和33年)前後と思われ、1650人の在校生がいたが、1974年(昭和49年)時点で900人、1993年(平成5年)時点で454人、と、減少の一途を辿っている。かつて日本バプテスト病院内に設けられていた養育学級も既に廃止された(『北白川百年の変遷』、『120周年記念誌』 p.4、p.44、『こども風土記』 p.313)。
^ 宮号が旧門跡と区別しがたいとの理由により、照高院の所在する北白川を新たな宮号とした。
^ 『史料京都の歴史 8』では、「岩倉幡枝窯跡群」もしくは「ケシ山窯跡群」からも同様の瓦が発掘され、北白川廃寺に用いられたことが確実視されている (p.24)。
^ 地元住民の間では、以前に存在したといわれる「めっく寺」の跡ではないかという説もある。なお、本来は「滅苦寺」といい、将軍山城の北西に存在していたとされるが、地元民は「目抉寺」と勘違いしており、その勘違いを真に受けた人物が、六波羅密のために自らの目を抉ったという逸話が「雍州府志」で紹介されている(『史料京都の歴史 8』 p.323)。ただし『東山三十六峰を歩く』で紹介されている『京都府愛宕郡村誌』内「白川村名所旧跡」によると、本来は「滅苦寺」でさえなく「苦滅寺」である。この資料によればこの寺は地域の菩提寺とされる。
^ 『こども風土記』 p.33、および『先史時代の北白川』 p.3によれば、10月17日、農学部北部構内を散歩していた濱田が、石斧の破片を偶然に拾ったのがきっかけとのことである。
^ この地域は堅果類(ドングリの類)が多く、居住に向いていたとされる。また、琵琶湖畔の遺跡との関連性も指摘されている。
^ 『先史時代の北白川』においては、遺跡の密集度、京都大学近辺という立地から研究者の興味を引きやすかったという要因も指摘されている。
^ 『史料京都の歴史 8』では、「白川扇状地上のほとんどに遺跡が存在する」とまでいわれている。
^ 享保9年4月8日(グレゴリオ暦1724年4月30日)に、焼失212件、焼け残ったのは52件に過ぎない大火が記録されているが、江戸時代末期ともいい切り兼ねる年代であり、時期を変えて複数の大火が有った可能性もあり、現在の所、どの時期の大火により首が落ちたのかを明確に示す史料は(ウィキペディア編集者には)見つかっていない。
^ そのためか、「首切れ地蔵」との異名もある。
^ 『京都大事典』によれば鎌倉中期。
^ この石仏が夜な夜なに動き出すとの噂を聞きつけた秀吉が聚楽第に移設してみたところ、「白河へ帰りたい」と鳴動したので、仕方なく元の場所に安置し直した、との話。地元での言い伝えの他、『花洛名勝図会』、『山州名跡志』などで記述が見られる。
^ 『愛郷』51号によれば、現在の狸谷不動尊の奥の院あたり。
^ 従前の場所については地図に掲載されている場合があり、参考文献に挙げた『街の達人 京都 大津 便利情報地図』(2011) などでも明記されている。北白川幼稚園の東隣辺りである。
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