北白川
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^ 『北白川と嵯峨野』では、あるアパートでは戦前までは学生が入居者の大部分を占めていたが、戦後は大部分がサラリーマンになったとの証言が紹介されている。
^ 『京都盆地の災害地名』によれば、近年では1941年6月に氾濫し下流に隣接する浄土寺町石橋町で決壊、1959年8月水害では東西は白川通以西から叡電沿線、南北は北大路通から御影通までが浸水。1967年7月には台風7号と梅雨前線の影響で丸山町で山崩れ。
^ 流れ橋の橋脚のように、堰堤の基本構造自体に致命的な損傷を被らないための策。
^ ちなみに、水車による伸銅産業の排水による公害で、白川に棲む生物が激減したとの説が、『こども風土記』 p.219で述べられているが、『120周年記念誌』 p.15によれば、最後の水車が廃止されてから30年近く経った1994年(平成6年)に至っても、やはり魚などはほとんど見られないようである。この部分を執筆した氏子会会長は、後述するラジウムが影響している可能性を示している。
^ 『東北歴覧之記』では1681年延宝9年/天和元年)の時点で「何れを白河の瀑と云えることを知れず」と、場所が分からなくなっている(1686年貞享3年)の『雍州府志』も同様である。なお、現代文訳はウィキペディア編集者による)。
^ 『新撰京都名所圖會 巻1 東山の部』 p.141によれば、寛政年間の作であり、高さ1.8メートル程度、かたわらには大日如来を従えている。
^ 泉質としては20度の放射能泉で、無味、無臭、無色。神経痛、筋肉痛、関節痛、胃腸病、腰痛、貧血などに効果があるとされている。
^ ただし、路線は今出川通以南までであり、駅は地域の南端のみである。詳しくは京都市電#路線データの図を参照。
^ 『東北歴覧之記』(1681年(延宝9年/天和元年))では、古くは志賀の山越、現在は山中越という、とされている。『中古京師内外地図』 ⇒[1]でその記述を確認できる。
^ 1575年天正3年)『史料京都の歴史 8』 p.310より
^ 3系統は御蔭通を通る便と、一つ北の東鞍馬口通を大回りし、京都造形芸術大学にアクセスできる便が存在する。また、仕伏町の志賀越道と御蔭通の交差点で終点、Uターンして折り返し運転となっている。
^ 京都駅前 - 出町柳 - 銀閣寺道 - 比叡山頂
^ 三条京阪 - 百万遍 - 銀閣寺道 - 北白川仕伏町 - 比叡平
^ 血痕を模した意匠とされる。すでに怪我をしているので、これ以上の危険はご容赦ください、の意。
^ 『京都民俗誌』によれば、頭より高く掲げることで、お上に渡す花に自らの息をかけない、表敬の意も有った。
^ 『京都故事物語』によれば、白川女の装束もこの当時のものを受け継いでいるかたちであるという。
^ 『北白川と嵯峨野』によれば、山向こうに当たる滋賀県でも、白川女に卸すために菊などの栽培がなされていた。ちなみに、p.61には、菊と小菊が合計5万本で、全出荷量の7割とされている。このことから、全出荷量は7万本程度と推察されるが、いずれにしても1965年(昭和40年)の資料である。他には菜種、クラジオラス、ナデシコなど、様々な花を取り扱っていた(pp.61-64)
^ ただし花畑ばかりというわけではなく、北白川には水田も多数存在していたほか、牧場なども見られている。
^ 原文からの現代文訳はウィキペディア編集者による。
^ ちなみに、現在地に移転するまでの2つの跡地は、いずれも白川の河畔という立地である。
^ ピークは1958年(昭和33年)前後と思われ、1650人の在校生がいたが、1974年(昭和49年)時点で900人、1993年(平成5年)時点で454人、と、減少の一途を辿っている。かつて日本バプテスト病院内に設けられていた養育学級も既に廃止された(『北白川百年の変遷』、『120周年記念誌』 p.4、p.44、『こども風土記』 p.313)。
^ 宮号が旧門跡と区別しがたいとの理由により、照高院の所在する北白川を新たな宮号とした。
^ 『史料京都の歴史 8』では、「岩倉幡枝窯跡群」もしくは「ケシ山窯跡群」からも同様の瓦が発掘され、北白川廃寺に用いられたことが確実視されている (p.24)。
^ 地元住民の間では、以前に存在したといわれる「めっく寺」の跡ではないかという説もある。なお、本来は「滅苦寺」といい、将軍山城の北西に存在していたとされるが、地元民は「目抉寺」と勘違いしており、その勘違いを真に受けた人物が、六波羅密のために自らの目を抉ったという逸話が「雍州府志」で紹介されている(『史料京都の歴史 8』 p.323)。ただし『東山三十六峰を歩く』で紹介されている『京都府愛宕郡村誌』内「白川村名所旧跡」によると、本来は「滅苦寺」でさえなく「苦滅寺」である。この資料によればこの寺は地域の菩提寺とされる。
^ 『こども風土記』 p.33、および『先史時代の北白川』 p.3によれば、10月17日、農学部北部構内を散歩していた濱田が、石斧の破片を偶然に拾ったのがきっかけとのことである。
^ この地域は堅果類(ドングリの類)が多く、居住に向いていたとされる。また、琵琶湖畔の遺跡との関連性も指摘されている。
^ 『先史時代の北白川』においては、遺跡の密集度、京都大学近辺という立地から研究者の興味を引きやすかったという要因も指摘されている。
^ 『史料京都の歴史 8』では、「白川扇状地上のほとんどに遺跡が存在する」とまでいわれている。
^ 享保9年4月8日(グレゴリオ暦1724年4月30日)に、焼失212件、焼け残ったのは52件に過ぎない大火が記録されているが、江戸時代末期ともいい切り兼ねる年代であり、時期を変えて複数の大火が有った可能性もあり、現在の所、どの時期の大火により首が落ちたのかを明確に示す史料は(ウィキペディア編集者には)見つかっていない。
^ そのためか、「首切れ地蔵」との異名もある。
^ 『京都大事典』によれば鎌倉中期。
^ この石仏が夜な夜なに動き出すとの噂を聞きつけた秀吉が聚楽第に移設してみたところ、「白河へ帰りたい」と鳴動したので、仕方なく元の場所に安置し直した、との話。地元での言い伝えの他、『花洛名勝図会』、『山州名跡志』などで記述が見られる。
^ 『愛郷』51号によれば、現在の狸谷不動尊の奥の院あたり。
^ 従前の場所については地図に掲載されている場合があり、参考文献に挙げた『街の達人 京都 大津 便利情報地図』(2011) などでも明記されている。北白川幼稚園の東隣辺りである。
^ 移設されたといっても数十メートル程度である。

出典[脚注の使い方]^ 『史料京都の歴史 8』 p.16
^ a b c 社団法人京都市埋蔵文化財研究所のホームページ 「小倉町別当町遺跡発掘調査報告書(第6次調査)」 ⇒[2](pdfファイル)、『日本の古代遺跡 京都1』 p.207、『先史時代の北白川』 p.14
^ 参考文献の各所において、水はけの良い、居住にも農業にも適した地質であるとの記述が見られる。なお、北白川の北方の修学院地域には音羽川、一乗寺川によって形成された扇状地と、やはり遺跡が存在している。
^ 『新撰京都名所図会 巻の1 東山の部』、『東山三十六峰記』、『雍州府志』山川門 愛宕の郡(白川山、白川、瓜生山)、『東山三十六峰を歩く』、『こども風土記』 p.15、p.293
^ 『こども風土記』 p.304
^ 京都市情報館 「京都市の統計情報」 ⇒[3]推計人口・人口動態/直近の国勢調査以降の推計結果 平成22年4月のxlsファイル
^ a b c d e f 『京都盆地の災害地名』 pp.40-42 「北白川」
^ 『新撰京都名所圖會 巻1』 p.138
^ 『こども風土記』 p.213、『北白川百年の変遷』 p.55
^ a b c 『京・まちづくり史』「6.郊外の発見」 pp.191-195
^ 『北白川の暮らし・すまい・まち』 p.7
^ 『北白川百年の変遷』 pp.54-56、『続・京都大路小路』 p.90
^ 『120周年記念誌』 p.28
^ 『京都の地学図鑑』 p.178、『史料 京都の歴史 8』 p.14、『先史時代の北白川』 p.73。ただし、浸食だけではなく、風化も強く作用している。いずれにしても、現在、東山のこの地域で、比叡山と大文字山(如意ヶ嶽)の山容が目立っているのは、その間の部分が削れてしまった結果である。両山頂はホルンフェルスでよく浸食に耐えるのと比較して、その間の地帯は比較的風化、浸食に脆弱な花崗岩であったためである。
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