北白川
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^ 『先史時代の北白川』においては、遺跡の密集度、京都大学近辺という立地から研究者の興味を引きやすかったという要因も指摘されている。
^ 『史料京都の歴史 8』では、「白川扇状地上のほとんどに遺跡が存在する」とまでいわれている。
^ 享保9年4月8日(グレゴリオ暦1724年4月30日)に、焼失212件、焼け残ったのは52件に過ぎない大火が記録されているが、江戸時代末期ともいい切り兼ねる年代であり、時期を変えて複数の大火が有った可能性もあり、現在の所、どの時期の大火により首が落ちたのかを明確に示す史料は(ウィキペディア編集者には)見つかっていない。
^ そのためか、「首切れ地蔵」との異名もある。
^ 『京都大事典』によれば鎌倉中期。
^ この石仏が夜な夜なに動き出すとの噂を聞きつけた秀吉が聚楽第に移設してみたところ、「白河へ帰りたい」と鳴動したので、仕方なく元の場所に安置し直した、との話。地元での言い伝えの他、『花洛名勝図会』、『山州名跡志』などで記述が見られる。
^ 『愛郷』51号によれば、現在の狸谷不動尊の奥の院あたり。
^ 従前の場所については地図に掲載されている場合があり、参考文献に挙げた『街の達人 京都 大津 便利情報地図』(2011) などでも明記されている。北白川幼稚園の東隣辺りである。
^ 移設されたといっても数十メートル程度である。

出典[脚注の使い方]^ 『史料京都の歴史 8』 p.16
^ a b c 社団法人京都市埋蔵文化財研究所のホームページ 「小倉町別当町遺跡発掘調査報告書(第6次調査)」 ⇒[2](pdfファイル)、『日本の古代遺跡 京都1』 p.207、『先史時代の北白川』 p.14
^ 参考文献の各所において、水はけの良い、居住にも農業にも適した地質であるとの記述が見られる。なお、北白川の北方の修学院地域には音羽川、一乗寺川によって形成された扇状地と、やはり遺跡が存在している。
^ 『新撰京都名所図会 巻の1 東山の部』、『東山三十六峰記』、『雍州府志』山川門 愛宕の郡(白川山、白川、瓜生山)、『東山三十六峰を歩く』、『こども風土記』 p.15、p.293
^ 『こども風土記』 p.304
^ 京都市情報館 「京都市の統計情報」 ⇒[3]推計人口・人口動態/直近の国勢調査以降の推計結果 平成22年4月のxlsファイル
^ a b c d e f 『京都盆地の災害地名』 pp.40-42 「北白川」
^ 『新撰京都名所圖會 巻1』 p.138
^ 『こども風土記』 p.213、『北白川百年の変遷』 p.55
^ a b c 『京・まちづくり史』「6.郊外の発見」 pp.191-195
^ 『北白川の暮らし・すまい・まち』 p.7
^ 『北白川百年の変遷』 pp.54-56、『続・京都大路小路』 p.90
^ 『120周年記念誌』 p.28
^ 『京都の地学図鑑』 p.178、『史料 京都の歴史 8』 p.14、『先史時代の北白川』 p.73。ただし、浸食だけではなく、風化も強く作用している。いずれにしても、現在、東山のこの地域で、比叡山と大文字山(如意ヶ嶽)の山容が目立っているのは、その間の部分が削れてしまった結果である。両山頂はホルンフェルスでよく浸食に耐えるのと比較して、その間の地帯は比較的風化、浸食に脆弱な花崗岩であったためである。また、大文字山登山道にて容易にボロボロに風化した花崗岩を手に取ってみることが可能である。ちなみに山頂までの所要時間は一時間半程度とのことである(『フィールドガイド大文字山』 p.137)。
^ 『北白川百年の変遷』口絵などではカラー写真と共に確認ができる。
^ 『こども風土記』 p.210。ちなみに北白川天神宮を天王と呼ぶ場合もある。
^ a b c 『京都故事物語』 p.328「白河の花」
^ 『北白川百年の変遷』 p.88、『こども風土記』 p.209、『雍州府誌』神社門 愛宕郡
^ 京都市情報館 ⇒[4](2010年6月閲覧)、『120周年記念誌』 p.16、日経タイムス「京都市、白川放水路完成」2008年05月14日 ⇒[5](2010年6月閲覧)
^ 『東山三十六峰を歩く』 p.75、『こども風土記』 p.102、『白川地誌』(『こども風土記』 p.339)
^ 『こども風土記』 p.107
^ 『とっておきの日帰り温泉 関西・中国・四国編』 pp.79-80、京都観光Navi 北白川天然ラジウム温泉 ⇒[6]、ぐるなび 京都北白川不動温泉 ⇒[7] 京都府薬務課 府内温泉一覧 ⇒[8] 、『日本百名湯一軒宿の湯 西日本編』 p.97、『温泉・宿ガイド 関西』 p.102
^ 『続・京都大路小路』 p.90。ちなみに『120周年記念誌』 p.18に1957年(昭和32年)頃の写真が掲載されているが、並木は確認できない。写真が白川通のどの辺りなのかは記述無し。
^ 『北白川百年の変遷』 p.28、p.64『こども風土記』 p.323 『北白川と嵯峨野』 p.49 ただし、北白川地域住民以外も12間道路と呼称していたかどうかは不明であり、北白川地域に限定された通称である可能性もある。なお、整備は南から北へ向けて行われ、1951年(昭和26年)の地図では上終町が北端となっている。区画整理は「都市計画法」(1919年(大正8年))に基づき、「北白川土地区画整理組合」によって実行された。
^ 『北白川百年の変遷』 p.76
^ 『北白川百年の変遷』 p.23
^ 『こども風土記』 p.57、p.282。1959年(昭和34年)時点では旧道の跡も残っていたとされる。2010年(平成22年)現在は不明。
^ 『北白川百年の変遷』 p.64
^ 『北白川と嵯峨野』 p.26
^ 京都大学百年史編集委員会『京大百年』京都大学、1997年、p.45
^ 『北白川百年の変遷』 p.75
^ 『北白川百年の変遷』 pp.95-101。この文献では多数の道標が写真付きで紹介されている。
^ 2010年(平成22年)現在。参考文献の各バス運行団体のwebサイトを参照
^ 『北白川百年の変遷』 p.84、同書によれば明治、大正年間で約290人、『こども風土記』によれば、1958年(昭和33年)頃は、300人程度の白川女が居たとされる。
^ a b 『北白川百年の変遷』 p.85
^ 京都市観光堂 ⇒[9] 時代祭の白川女の写真(2010年5月閲覧)
^ 『新撰京都名所圖會 巻1 東山の部』 p.140
^ 『京都民俗誌』 p.15
^ 『京都故事物語』 p.107「白川女」
^ 『こども風土記』 p.248
^ 『続・京都大路小路』 p.93。京都新聞 「ふるさと昔語り33 北白川の子安観世音」 ⇒[10]によれば、2007年(平成19年)時点で10人程度。京都新聞 「大八車の白川女 引退京の風習半世紀支えた花売り」 ⇒[11](2009年12月19日、2010年6月閲覧)によれば、2010年(平成22年)現在、荷車で昔ながらの行商を行っている白川女はすでに存在しないということとなる。
^ 宮内庁京都事務所の弁。『新 京の魁』(1989年)によれば、10年ほど前。
^ 具体的な資料としては具体的には1942年(昭和17年)と1963年(昭和38年)の白川女の名字の比率の変化が少ない点が『北白川と嵯峨野』 p.63で紹介されている。ただし、この間に集計対象の白川女の総数が250名から104人と激減しており、また、長期的に取られたデータは現在の所確認していない。
^ 『こども風土記』 p.196
^ 『北白川百年の変遷』 p.58
^ 『北白川百年の変遷』 p.86
^ 『こども風土記』 p.193
^ 『こども風土記』 p.275

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