北畠顕家
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注釈^ a b系図纂要』は中御門為行女行子とする。
^ a b吉野拾遺』『系図纂要』では日野資朝の娘としている。顕家を祖とする浪岡氏関係の系図には、浪岡秀種女頼子(萩の局)と伝えるものが多い。
^ 正確には平安時代に藤原頼長の子供である藤原師長が数え14歳で参議に任ぜられている。但し師長は摂関家であり、村上源氏でも庶流であった顕家の任官は異例のものであった。
^ 『系図纂要』では「文保二年三ノ二生」とある。
^ 『増鏡』では、「其の程、上も御引直衣にて、倚子に著かせ給ひて、御笛吹かせ給ふ。常より異に雲井をひびかす様也。宰相の中将顕家、陵王の入綾をいみじう尽くしてまかづるを、召し返して、前の関白殿御衣取りてかづけ給ふ。紅梅の表着・二藍の衣なり」とこのときの様子が記されている。
^ 「元徳二年(1330年)13歳で左中弁となる新例をひらき、翌年参議で左近衛中将を兼ね、空前の昇進を示した」[3]
^建武記』『職原鈔』によると、鎮守府将軍は従五位上相当職であるので、三位以上の者がこの職に就いた際には、将軍の上に大を加えて大将軍としたという。
^ 浪岡氏については、顕家の弟顕信の孫にあたる北畠親能の子孫とする説など諸説ある。
^ 南朝に参候したため。
^ 『高野山文書』正平7年(1352年)4月1日付北畠親房蓮華乗院勧学料所寄進状に「亡息贈従一位右大臣」と見えているので、これ以前であることは確実である。

出典^ a b c d 黒板 1939, p. 616.
^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao ap aq ar愛しの顕家様のぺえじHP内北畠顕家関連年表、2014年7月2日閲覧
^ 河出書房新社『日本歴史大辞典』
^ 本郷和人「天皇の思想: 闘う貴族北畠親房の思惑」2010年 山川出版社
^ 『大日本史料』6編1冊99頁「公卿補任」元弘三年六月十二日
^ 『大日本史料』6編1冊170頁「公卿補任」
^ a b c d e f g h i j k l “日本の歴史学講座HP内北畠氏総合年表”. 2014年7月5日時点の ⇒オリジナルよりアーカイブ。
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