凡例北畠 具教
北畠具教像(伊勢吉田文庫蔵)
時代戦国時代 - 安土桃山時代
生誕享禄元年(1528年)
死没天正4年11月25日(1576年12月15日)
別名天覚、不智斎(法号)
戒名寂光院殿心祖不智大居士
墓所三重県松阪市飯高町野々口の首塚
官位正三位、中納言、伊勢国司(知行国主)
氏族村上源氏、北畠家
父母父:北畠晴具、母:細川高国の娘
兄弟具教、木造具政、具親
妻正室:北の方[1](六角定頼の娘)
側室:大匠院(説)
子具房、長野具藤、親成、雪姫(織田信雄正室)、不破直光室、津川義冬室、徳松丸、亀松丸、東嶽(説)野呂正景室
養子?信意
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北畠 具教(きたばたけ とものり)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての大名・公家。伊勢国司北畠家の第8代当主。 享禄元年(1528年)、第7代当主・北畠晴具の長男として生まれる[2][3]。母は細川高国の娘[4]。 天文6年(1537年)6月20日に従五位下、同月26日に侍従となる[4][2][3]。以後も天文21年(1552年)従四位下参議に叙任されて公卿に列し、天文23年(1554年)に従三位権中納言に叙任されているなど、朝廷から官位を授かって順風満帆な青年期を過ごした[3]。この間の天文22年(1553年)に父・晴具の隠居により家督を相続して、第8代当主となる。 弘治元年(1555年)、父・晴具の命により伊勢国安濃郡を支配していた長野工藤氏と戦い、永禄元年(1558年)に次男・具藤を長野工藤氏の養嗣子とする有利な和睦を結ぶことで北伊勢に勢力を拡大し[2][3]、永禄5年(1562年)5月5日に長野稙藤と長野藤定が同日に死去したため長野氏の支配権を完全に掌握した。 永禄3年(1560年)、小浜景隆ら志摩国の国人達を援助して九鬼氏の本拠地・田城を攻めさせ、一時的に九鬼氏を滅ぼして(城主の九鬼浄隆は戦死、弟の九鬼嘉隆は逃亡した。)志摩国での支配体制を固めた。さらに『勢州軍記』「秋山謀叛事」によれば、永禄初年に大和国宇陀郡の国人領主・秋山教家が三好氏の婿[注釈 1]として権勢を奮い、具教の命に従わなかったため、具教は教家の居城の神楽岡城を攻め、教家の父を人質に取ったという。このように具教は北畠家の支配範囲を順調に広げていき、北畠家の最盛期を築き上げた[2]。 永禄6年(1563年)、父の晴具が死ぬと喪に服して官職を辞し[3]、嫡男の具房に家督を譲って隠居する。しかし、北畠家の実権は依然として具教が握っていたようである。 ところが、永禄11年(1568年)以降、織田信長が伊勢国に侵攻し、神戸氏・長野工藤氏など伊勢北中部の豪族を支配下に置いた。そして、永禄12年(1569年)に8月に信長自ら北畠領内への侵攻を開始した[2]。北畠軍は織田軍相手に奮戦したが、兵数に大きな差があり、具教の弟・木造具政が織田氏に寝返るなどの悪条件も重なり、次々と城を落とされた。具教は大河内城(現在の三重県松阪市)に籠城して死守するも、50余日に及ぶ抵抗の末に降伏する形で和睦した(大河内城の戦い)[2][3]。
生涯
出生