同時に長野具藤はじめ北畠一門の主な者が信雄の居城・田丸城において殺害された。これにより戦国大名としての北畠氏は完全に織田氏に乗っ取られた(三瀬の変)。
なお、具教の首級は、加留左京進の家臣である伊東重内らにより運び出されたが、変に気付き駆け付けた芝山秀時、大宮多気丸らに奪い返され、秀時の父である芝山秀定により御所尾山に埋葬された[7]。 ○出典:『寛政重修諸家譜』[4]
人物・逸話
具教は剣術を好み、修行の旅をする剣客を保護・援助していた。自身も塚原卜伝に剣や兵法を学び[3]、彼は卜伝から奥義である一の太刀を伝授されたといわれる。他にも上泉信綱からも剣を学んだ。具教は大和の柳生宗厳とは剣を通じて親交があり、上泉信綱に彼や宝蔵院胤栄を紹介するなど、剣豪たちの交流に一役買っていたといわれる。織田氏の刺客に襲撃された際も、太刀を手に19人の敵兵を斬り殺し100人に手傷を負わせたという[9](刀の刃が腹心の佐々木四郎左衛門尉により潰されており、抵抗できずに斬殺されたとも[1])。
父の晴具と同様に和歌を好んでいた[3]。
暗殺された20年後、上三瀬の具教の末裔を名乗る住人が具教の菩提を弔うために現在の大台町にある北畠神社の場所に国司堂を建てたとされる[10]。
三重県飯高町野々口御所尾山には具教のものとされる首塚が存在する[2]。
諱の具教は、高祖父の北畠教具にあやかってつけたものとされている。
官歴
天文6年(1537年) 6月20日:従五位下)、同月26日:侍従
時期不詳:左少将
天文14年(1545年)2月26日:従五位上、同月28日:左中将
天文16年(1547年)3月23日:美濃守
天文18年(1549年)2月28日:正五位下
天文21年(1552年)2月22日:従四位下、12月28日:参議
天文22年(1553年)1月5日:従四位上
天文23年(1554年)1月5日:正四位下、3月25日:従三位中納言
弘治3年(1557年)8月2日:正三位[11]
系譜
父:北畠晴具[12]
母:細川高国の娘[12]
正室:北の方(六角定頼の娘)[12]
男子:北畠具房[12](1547-1580)
側室:大匠院(三輪吉高の娘、後に離縁し蜂須賀正勝の正室となる)
男子:東嶽(長存)
生母不詳の子女
男子:長野藤教(具藤)[12](1552-1576) - 長野藤定の養子
男子:北畠親誠(親成)[13](1560-1576)
男子:北畠具成
男子:徳松丸[13](?-1576)
男子:亀松丸[13](?-1576)
女子:堀江教賢室[14](?-1619)
女子:田丸具安(直昌)室[14]
女子:吉野本善寺飯貝門跡室[14]
女子:津川玄蕃(義冬)室[14]
女子:雪姫(?)(?-1592) - 織田信雄室[12]
女子:不破直光室
女子:野呂正景室
家臣
藤方朝成
鳥屋尾満栄
家城之清
奥山信濃守(重臣):小森上野城主。
奥山常陸介(侍大将)
日置大膳亮:松ヶ島細首城主。大河内城の旗頭・高松左兵衛督の弟で弓の名手。北畠氏が信長に屈した後は弟の日置次太夫とともに織田信雄に仕え、後に徳川家康の家臣となった。
登場作品
小説
今村翔吾『何のための太刀』(『戦国武将伝 西日本編』収録、PHP研究所、2023年)