北海
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大部分はヨーロッパ大陸棚で、平均水深は90m[4]。ただ、北海北部、オスロ沖からベルゲン沖にかけて陸地と平行に南北に伸びているノルウェー海溝のみは深く、最も深い場所は最大725mである。ドッガーバンク(堆)は氷河が運んだ岩・砂の堆積物でできており、水深15?30mの広大な浅瀬で[5][6]、好漁場となっている。平均水温は夏の17度℃、冬の6度℃[1]。冬は暴風が頻繁に吹く。海流は大まかに反時計回りで、岸に沿って流れている[7]。主として北西から大西洋の海水が、南のイギリス海峡から暖かい海水が流れ込む。潮汐流がノルウェー沿岸を流れ、塩分の少ない浅層の海水は沖へ、高塩分の深層海水は陸へ動く。干満の差は0?8mである。

北東部のノルウェー沿岸では顕著な氷食地形をなしており、フィヨルドが連なっている。一方、南部沿岸は砂州と低湿地が主で、海岸沿いに砂州からなる島々が連なる。この島々はユトランド半島中部からオランダ中部にいたるまでひとつながりをなしており、総称でフリジア諸島(フリースラント諸島)と呼ばれる。フリジア諸島は、政治的にはデンマーク領のデンマーク・ワッデン海諸島、ドイツ領の東フリースラント諸島、オランダ領の西フリースラント諸島に分かれている。フリジア諸島とヨーロッパ大陸本土との間の海はワッデン海と呼ばれる。フリジア諸島を除くと、北海に島はほとんど存在しない。わずかにフリジア諸島のやや沖合にヘルゴラント島が存在する程度である。
治水北海からアイセル湖を隔てるアフシュライトダイク(締め切り堤防)

北海南部沿岸は元々は氾濫原湿原といった、海とも陸ともつかないような土地が広がっていた。こうした高潮や嵐に脆弱な地域では、人々は自然堤防となっている砂丘の背後の高台となっている沖積層や砂嘴に住み着いた[8]:[302,303]。早くも紀元前500年頃には、この地域の人々は満潮よりも常に高くなるテルプと呼ばれる人工的な盛り土の上に住居を構えるようになっていた[8]:[306,308]。この頃にはまだゾイデル海はなく、オランダ中央部にはフレヴォ湖と呼ばれる淡水湖が存在していた。

しかし、北海沿岸では浸食がはげしく、陸地の縮小が起こっていた。中世紀に入り、海水面が上昇したことがこれに拍車をかけた。1170年11月1日から2日にかけて、「万聖節の洪水」(Allerheiligenvloed)と呼ばれる北海の大洪水がオランダ北部を襲い、これによってフリースラント諸島南部のワッデン海が拡大し、フレヴォ湖はこの洪水によって海に開口し、海水の浸入によってゾイデル海となった。この陸地の消失はその後も続き、1228年高潮では10万人以上が死亡したとされ[9]1287年12月14日の聖ルチア祭の洪水によってこれらの海はさらに拡大した。こうした海進を食い止めるため、1200年頃から、上記のテルプをつなぎあわせ、海岸沿いに堤防を建設して大きな居住地域を建設する動きが本格化した[8]。これに伴い、干拓堤防を建設して、その内側の低湿地を干拓して農地に変更することも盛んに行われるようになった。風車を使った排水も本格化し、「世界は神が作ったが、オランダはオランダ人が作った」と呼ばれるほどに干拓が進んだ。1918年には、ゾイデル海を北海から切り離して嵐から沿岸地域を守り、干拓地域をさらに拡大するために、ゾイデル海を締め切って淡水化・干拓を行うゾイデル海開発計画が認可され、1932年アフシュライトダイク(締め切り堤防)が完成し、ゾイデル海は再び淡水のアイセル湖となった[10]オランダ、南ベーフェラントにおける1953年2月の北海沿岸大洪水

しかし、1953年2月に北海沿岸大洪水が発生し、沿岸諸国合計で2551人の死者を出した[11]。このうち最も多い1836人の死者を出したオランダでは、被害の特に大きかったライン川マース川スヘルデ川三角州地域の河口を全て塞いでしまう「デルタ計画」と呼ばれる大治水工事が1958年に開始され、1986年に完成した。この計画によって、主要港であるロッテルダム並びにアントウェルペンを除く全ての河口が堤防または可動によって有事には閉塞が可能になり、両主要港沿岸の堤防は大幅にかさ上げされた[12]。2007年には、オランダ国土の27%が堤防や砂丘によって保護された海面下となっている[13]
歴史
有史以前から古代

約8200年ほど前までは、現在の北海中央部にあるドッガーバンクはドッガーランドと呼ばれる大地であり、ヨーロッパ大陸とつながっていて、他の北海沿岸部と同じく狩猟採集民が生活していた。しかしその後、海面上昇が起こり、ドッガーランドは海没して住民は沿岸各地へと移住していった。

北海沿岸の確実な記録が残されるようになるのは、紀元前55年から紀元前54年ユリウス・カエサルによるブリタンニア侵攻であり、43年にはクラウディウス帝によって属州ブリタニアが創設された。ローマ帝国の支配は北海西部のブリタニアや、南端のライン川までにとどまっており、それ以北はゲルマン人の居住区域だった。
中世

409年にローマ帝国がブリタニアより撤退すると、現在のデンマークや北部ドイツ周辺にいたゲルマン人の一派であるアングル人ジュート人サクソン人が北海を渡ってブリタニアを征服し、イングランドの原型ができた。5世紀頃からはオランダ北部に居住しているフリース人(フリースラント人)が北海交易を開始し、ライン河口に作られたドレスタットの町は9世紀まで北海の交易の中心地となっていた[14]

8世紀末ごろよりヴァイキングの活発な活動が始まり、デーン人ノース人が北海を渡ってイングランドやフランク王国にたびたび襲撃をかけた。ヴァイキングはロングシップと呼ばれる喫水の浅く、細長い快速船を使って軍事侵攻を繰り返す一方、クナールと呼ばれる幅広で喫水の深い貿易船を使用した貿易も盛んに行った。863年にはドレスタットがヴァイキングに略奪されて崩壊し、以後北海交易の主役はヴァイキングへと移った。ヴァイキングは初めは交易と略奪を主としていたが、やがて軍事的侵攻の色合いを濃くし、特にイングランドにおいてはウェセックス王国を除くイングランド全域を征服した。このときは878年ウェドモーアの和議によってイングランド東部がデーンロウと呼ばれるデーン人領域となり、886年アルフレッド大王ロンドン奪回によって領域が確定した。しかしその後もデーン人とイングランド人の抗争は続き、1016年にはデンマーク王クヌート1世がイングランド王位を獲得し、やがてデンマーク王とノルウェー王も兼ねて広大な北海帝国を築きあげたが、1035年のクヌートの死とその後の後継者争いによって瓦解した。

このころからヨーロッパ北部の商業中心となってきたのが、北海南岸のフランドル地方である。とくにブリュージュは、南北商業の結節点として大いに栄えた。1277年には、地中海ジェノヴァ共和国ガレー船がブリュージュ外港のズウィン湾に到着し[15]、これによって北海・バルト海と地中海を直接結ぶ商業航路が開設され、ブリュージュおよびフランドル地方はヨーロッパ経済の北の中心となっていった。

やがて10世紀末頃から、ドイツ商人が北海へと進出を開始する。最初に進出したのはイングランドであり、とくにケルン商人がイングランド交易では力を持っていた。この交易と、バルト海方面での交易の伸長によって、やがて12世紀には北海・バルト海沿岸の諸都市によってハンザ同盟が成立し、この地域で勢力を伸ばした。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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