北海
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1560年頃より、それまでデンマークのエーレスンド海峡方面に生息していたニシンの群れがドッガーバンクをはじめとする北海洋上に群生するようになった[16]。しかし沿岸に近いところに押し寄せていたバルト海時代と違い、ニシンは北海洋上に群生するようになったため、防腐処理の問題が生じた。この問題は、オランダがバス船と呼ばれる大型漁船を投入することで解決した。バス船にはデッキがあるため、船上で塩漬け処理する工程が可能だったのである[17]。この技術優位によって、オランダの漁船群は北海各地、特にイギリス沿岸に近い海域でニシンを大量にとるようになり、オランダの経済繁栄の一因となった。この洋上でのニシン漁業は「大漁業」と呼ばれ、オランダ経済の根幹の一つとなっていた。また、アムステルダムを中心とするオランダ諸港からはヨーロッパのみならず世界各地へと商船が出航していった。

しかし、17世紀前半以降、特にイングランド王国において、この北海におけるオランダ覇権に対する反発が強まってきた。1651年オリヴァー・クロムウェル支配下のイングランド国会で航海条例が制定され、イングランド及びその植民地から外国船は締め出された。これに反発したオランダとの間に、1652年、第一次英蘭戦争が勃発する。この戦争では海戦が主体となったが、オランダ側は常設艦隊を持たず、大型艦も少なかったため、イギリス側が終始優勢に戦闘を進め、1654年ウェストミンスター条約においてイギリス側が勝利を確定した。この後も1665年から1667年にかけて第二次英蘭戦争、1672年から1674年にかけて第三次英蘭戦争が勃発した。この時期はまだオランダの経済力が他を圧していたものの、やがてオランダ経済は衰退の道をたどるようになり、18世紀には北海の制海権はイギリスへと移り、北海経済の中心もアムステルダムからロンドンへと移った。
近現代

18世紀以降のイギリスは覇権国家となり、北海の制海権は20世紀中盤までイギリスが握り続けた。1805年、フランスの皇帝ナポレオン・ボナパルトがイギリス本土上陸を目指したものの、スペインの大西洋で行われたトラファルガーの海戦によってこの試みは粉砕され[18]ナポレオン戦争中を通じてイギリスが制海権を手放すことはなかった。1806年にはフランスが大陸封鎖令を出したものの、制海権を握るイギリスはこれをしのぎきり、逆にこの封鎖令による反発からナポレオンの覇権は崩壊していった。

19世紀末、ドイツ帝国が成立し、急速に国力を増大させるにしたがって、ドイツがイギリスの海上覇権に挑戦し始めた。ドイツ帝国海軍イギリス海軍建艦競争を繰り広げ、軍事的緊張が高まりつつあった。一方、1904年日露戦争が勃発すると、ロシア海軍はバルト海のリバウ軍港からバルチック艦隊旅順へと回航させようとしたが、ドッガー・バンクにおいてバルチック艦隊はイギリスの漁船を日本水雷艇と誤認して砲撃、漁民に死傷者を出した。このドッガーバンク事件により、イギリスのロシアへの態度は一時的に非常に硬化し、日本海海戦にも影響を与えた。

1914年第一次世界大戦が勃発すると、北海も戦場となった。ヴィルヘルムスハーフェンを基地とするドイツ海軍大洋艦隊と、イギリス海軍のグランドフリートが対峙した。両艦隊間にはヘルゴラント・バイト海戦1914年)、ドッガー・バンク海戦1915年)およびユトランド沖海戦1916年)といった海戦が戦われたが、ドイツ軍は結局イギリス軍の海上優勢を覆すことができないまま終戦を迎えた。

第二次世界大戦における北海を経由した軍艦の活動については、大西洋の戦い (第二次世界大戦)ヴェーザー演習作戦を参照。
経済
政治状況北海沿岸各国の経済水域

北海を取り巻く国々は12海里(22km)領海で排他的漁業権を主張している[19]。EUの漁業政策で漁業権を調整し、EU諸国とノルウェー間の紛争を処理する[20]。北海で炭化水素が発見されたため、大陸棚会議で各国の権利を中間線方式で区分した。中間線とは二国間の陸上国境の延長とみなされる境界線のことである[21]。ただし、ドイツ、オランダ、デンマークの海底領土の係争は北海大陸棚事件と呼ばれ、長い交渉と国際司法裁判所の裁定を経て決定された[19][22]
海上交通ロッテルダム港

北海は、海上輸送において非常に重要な海域であり、北海航路は世界で最も利用されている航路のひとつである[19]。ヨーロッパで最も貨物取扱量が大きく、世界でも第4位(2012年)に位置するロッテルダム港をはじめ[23]、同世界18位のアントワープ、同世界29位のハンブルク、コンテナ取扱量世界18位のブレーメンおよびブレーマーハーフェン、同33位のフェリックストー(イギリス)[24]、さらにヨーロッパを代表するRO-RO船の港であるブリュージュおよびゼーブルッヘ[25]など、多くの重要港が存在する。商船の他に漁船、石油基地の船、スポーツ用の船舶、遊覧船などでこの海域は混みあい、またバルト海からやってくる船のほとんどは北海を通航する必要があるため、この混雑はさらに激しくなる。ドーバー海峡では、1日に400隻以上の商船が行き来する[26]。北海沿岸には運河が発達しており、なかでも北海とバルト海を結ぶキール運河は最も重要なものであり、2009年にはスポーツボートやほかの小型船舶を含めずに、一日当たり89隻の通行を記録した。これは、世界で最も使用される人工水路である[27]。キール運河を使用すれば、ユトランド半島を迂回するのに比べ460kmの航路短縮となる[28]
石油・ガススタートフィヨルド油田

北海には、イギリス領内のフォーティーズ油田(英語版)、ブレント油田(英語版) 、パイパー油田、ノルウェー領内の エコーフィスク油田スタートフィヨルド油田トロールガス田、ヨハン・スヴェルドルップ油田(英語版)、などの油田・ガス田が存在し、総称して北海油田と呼ばれている。1960年にイギリスが北海で最初に油田を開発[29]。その後、ノルウェー領海内で硫黄分の少なく価値の高い[30]エコーフィスク油田を1969年に発見し[31]1971年に生産が開始された。積み出しは当初は石油タンカーで行われたが、1975年にイギリスのティーズサイドへのパイプラインが完成し、さらに1977年にはドイツのエムデンへのパイプラインも完成した[32]。北海油田の開発は1973年第一次石油危機の直前であり、石油危機によって油価が高騰したために多額の投資に見合う利益が見込めるようになったため、一気に開発熱が高まった[33]。生産コストは高いものの、良好な原油性状、安定した政治環境、西ヨーロッパという重要な市場に近いことで、北海は世界でも重要な産出地域の一つとなった[30]。西欧で最大の埋蔵量を誇り、非OPECの重要な生産地域である[34]。ブレント原油は世界の原油価格の重要な指標である[35]。2000年代に入り、特にイギリス領の油田において油田の成熟化が進み、徐々に生産量が減少しつつある。2005年にはイギリスで原油消費量が生産量を上回り、これ以降イギリスは石油の純輸入国となっている[36]。北海で最大の人身事故は1988年パイパー・アルファ基地火災で、167名が死亡した[37]


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