北海
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このうち最も多い1836人の死者を出したオランダでは、被害の特に大きかったライン川マース川スヘルデ川三角州地域の河口を全て塞いでしまう「デルタ計画」と呼ばれる大治水工事が1958年に開始され、1986年に完成した。この計画によって、主要港であるロッテルダム並びにアントウェルペンを除く全ての河口が堤防または可動によって有事には閉塞が可能になり、両主要港沿岸の堤防は大幅にかさ上げされた[12]。2007年には、オランダ国土の27%が堤防や砂丘によって保護された海面下となっている[13]
歴史
有史以前から古代

約8200年ほど前までは、現在の北海中央部にあるドッガーバンクはドッガーランドと呼ばれる大地であり、ヨーロッパ大陸とつながっていて、他の北海沿岸部と同じく狩猟採集民が生活していた。しかしその後、海面上昇が起こり、ドッガーランドは海没して住民は沿岸各地へと移住していった。

北海沿岸の確実な記録が残されるようになるのは、紀元前55年から紀元前54年ユリウス・カエサルによるブリタンニア侵攻であり、43年にはクラウディウス帝によって属州ブリタニアが創設された。ローマ帝国の支配は北海西部のブリタニアや、南端のライン川までにとどまっており、それ以北はゲルマン人の居住区域だった。
中世

409年にローマ帝国がブリタニアより撤退すると、現在のデンマークや北部ドイツ周辺にいたゲルマン人の一派であるアングル人ジュート人サクソン人が北海を渡ってブリタニアを征服し、イングランドの原型ができた。5世紀頃からはオランダ北部に居住しているフリース人(フリースラント人)が北海交易を開始し、ライン河口に作られたドレスタットの町は9世紀まで北海の交易の中心地となっていた[14]

8世紀末ごろよりヴァイキングの活発な活動が始まり、デーン人ノース人が北海を渡ってイングランドやフランク王国にたびたび襲撃をかけた。ヴァイキングはロングシップと呼ばれる喫水の浅く、細長い快速船を使って軍事侵攻を繰り返す一方、クナールと呼ばれる幅広で喫水の深い貿易船を使用した貿易も盛んに行った。863年にはドレスタットがヴァイキングに略奪されて崩壊し、以後北海交易の主役はヴァイキングへと移った。ヴァイキングは初めは交易と略奪を主としていたが、やがて軍事的侵攻の色合いを濃くし、特にイングランドにおいてはウェセックス王国を除くイングランド全域を征服した。このときは878年ウェドモーアの和議によってイングランド東部がデーンロウと呼ばれるデーン人領域となり、886年アルフレッド大王ロンドン奪回によって領域が確定した。しかしその後もデーン人とイングランド人の抗争は続き、1016年にはデンマーク王クヌート1世がイングランド王位を獲得し、やがてデンマーク王とノルウェー王も兼ねて広大な北海帝国を築きあげたが、1035年のクヌートの死とその後の後継者争いによって瓦解した。

このころからヨーロッパ北部の商業中心となってきたのが、北海南岸のフランドル地方である。とくにブリュージュは、南北商業の結節点として大いに栄えた。1277年には、地中海ジェノヴァ共和国ガレー船がブリュージュ外港のズウィン湾に到着し[15]、これによって北海・バルト海と地中海を直接結ぶ商業航路が開設され、ブリュージュおよびフランドル地方はヨーロッパ経済の北の中心となっていった。

やがて10世紀末頃から、ドイツ商人が北海へと進出を開始する。最初に進出したのはイングランドであり、とくにケルン商人がイングランド交易では力を持っていた。この交易と、バルト海方面での交易の伸長によって、やがて12世紀には北海・バルト海沿岸の諸都市によってハンザ同盟が成立し、この地域で勢力を伸ばした。これらの北海やバルト海貿易といった、いわゆる北方貿易においては、穀物といった生活必需品が主に扱われ、地中海などの南方貿易が奢侈品を多く取り扱うのとは対照的な性格のものだった。こうした貿易によってハンザ同盟は14世紀には全盛期を迎えた。
近世

ハンザ同盟は15世紀には衰退し始め、それに変わってネーデルラントが北海の覇権を握るようになった。1492年クリストファー・コロンブスによるアメリカ大陸の発見、ならびに1498年ヴァスコ・ダ・ガマによるインド航路の開発によって、大西洋を通じて遠方の諸世界との航路がつながるようになり、そうした諸世界からの富がスペインポルトガルを通じてネーデルラントへと流れ込むようになったため、それまでの地中海・バルト海貿易の地位は徐々に低下していき、代わりに大西洋貿易と、それと直結した北海の経済的地位は上昇し続けることとなった。また、このころにはブリュージュがシルト堆積によって港湾機能を失い、ヨーロッパ北部の大交易拠点はアントウェルペンへと移った。しかし、これらネーデルラント諸都市は、特に貿易の盛んな北部諸都市ではキリスト教のうちカルヴァン派を信仰するものが多く、統治者であるカトリックハプスブルク家とは対立しがちであった。

1568年フェリペ2世による異端審問や旧来の諸権利の侵害に耐えかねたネーデルラント諸州が有力貴族オラニエウィレム1世のもとで反乱を起こし、八十年戦争が勃発した。戦闘は序盤はスペイン側が圧倒的に優勢であったが、ネーデルラント側は海上で優勢を保っており、ゼーゴイセンと呼ばれる海上ゲリラ部隊が北海からスペイン支配下の諸都市に攻撃を繰り返し、1572年からいくつかの都市を占領するなど、徐々に戦局はネーデルラント側に傾いていった。1579年には北部のプロテスタント7州がユトレヒト同盟を結成し、これを基にして北部諸州は独立国の様相を強め、やがてネーデルラント連邦共和国オランダ)が成立する。これにより、北海の覇権はそのままオランダへと移行した。

1585年、アントウェルペンがオランダ独立戦争のさなかスペイン軍に占領されると、北欧経済の中心はオランダのアムステルダムへと移った。1560年頃より、それまでデンマークのエーレスンド海峡方面に生息していたニシンの群れがドッガーバンクをはじめとする北海洋上に群生するようになった[16]。しかし沿岸に近いところに押し寄せていたバルト海時代と違い、ニシンは北海洋上に群生するようになったため、防腐処理の問題が生じた。この問題は、オランダがバス船と呼ばれる大型漁船を投入することで解決した。バス船にはデッキがあるため、船上で塩漬け処理する工程が可能だったのである[17]。この技術優位によって、オランダの漁船群は北海各地、特にイギリス沿岸に近い海域でニシンを大量にとるようになり、オランダの経済繁栄の一因となった。この洋上でのニシン漁業は「大漁業」と呼ばれ、オランダ経済の根幹の一つとなっていた。また、アムステルダムを中心とするオランダ諸港からはヨーロッパのみならず世界各地へと商船が出航していった。

しかし、17世紀前半以降、特にイングランド王国において、この北海におけるオランダ覇権に対する反発が強まってきた。1651年オリヴァー・クロムウェル支配下のイングランド国会で航海条例が制定され、イングランド及びその植民地から外国船は締め出された。これに反発したオランダとの間に、1652年、第一次英蘭戦争が勃発する。この戦争では海戦が主体となったが、オランダ側は常設艦隊を持たず、大型艦も少なかったため、イギリス側が終始優勢に戦闘を進め、1654年ウェストミンスター条約においてイギリス側が勝利を確定した。この後も1665年から1667年にかけて第二次英蘭戦争、1672年から1674年にかけて第三次英蘭戦争が勃発した。この時期はまだオランダの経済力が他を圧していたものの、やがてオランダ経済は衰退の道をたどるようになり、18世紀には北海の制海権はイギリスへと移り、北海経済の中心もアムステルダムからロンドンへと移った。
近現代

18世紀以降のイギリスは覇権国家となり、北海の制海権は20世紀中盤までイギリスが握り続けた。1805年、フランスの皇帝ナポレオン・ボナパルトがイギリス本土上陸を目指したものの、スペインの大西洋で行われたトラファルガーの海戦によってこの試みは粉砕され[18]ナポレオン戦争中を通じてイギリスが制海権を手放すことはなかった。


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